職人の世界に飛び込んだ人たち
時代のトレンドを写し出す“江戸木版画”ーー摺師・田埜昌美が目指す伝統工芸士の道
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2025年1月から放送されている、大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』(NHK)。主人公の“蔦重”こと蔦屋重三郎の職業が、江戸木版画の版元であることは知っているだろうか。当時のメディア業界を作り上げた江戸木版画は、令和になったいまでもお茶の間で注目されている。 今回は、そんな“江戸木版画”の世界についてインタビュー。高橋工房で摺師(すりし)として活躍する田埜昌美(たのまさみ)さん、そして六代目の高橋由貴子さんに、江戸木版画の世界、そして現代における職人の生き様について聞いた。
娯楽文化として現代へと受け継がれる伝統工芸・江戸木版画
![]() 江戸木版画とは、東京都指定の伝統工芸品である。江戸時代に花開いた大衆文化でもあり、“庶民の娯楽文化”の代表ともいえる存在だろう。その始まりについて、高橋さんはこう語った。 「日本で長いこと続いた戦が終わり、穏やかな世のなかになったころ、庶民も文化を楽しめるようになったんです。そこで生まれたのが、浮世絵版画。庶民の生活の様子や、行ってみたい場所、食べてみたいもの、そういった情報を載せていたのが江戸木版画なんです」 江戸木版画は、いまでいうグルメ雑誌やファッション誌、週刊誌のような存在であり、現代のメディアの基盤にもなっている文化である。当時は、江戸木版画が出回ったことによって、あらゆるトレンドが生まれたという。まさに、“流行り”を生み出す仕事でもあったわけだ 「江戸木版画はアートではないんですよ。あくまで工芸品、クラフトなんです。最終的に木版画は庶民に買ってもらわなければいけないので、お値段は高くてはいけません。昔は幕府から『16問で売りなさい』と、お達しがあったそうです。16問というのは、いまの金額に換算すると約480円になります」 たしかに浮世絵と聞くと、美術館などで飾られているアート作品のようなイメージがあるが、それはあくまで“アート”の世界の話。江戸木版画は、庶民のなかで生まれた身近な文化なのだ。
常識を破る摺師の表現の世界
![]() ここからは、具体的に江戸木版画ができるまでの流れについて教えてもらった。そもそも、こういった伝統工芸に木材が使われるようになったのは、日本という国の特徴が背景にあると高橋さんは語った。「日本は、国土の半分以上が木でできているんです。ですから 、版木や紙は木から作られています。これがたとえばヨーロッパだと、石板になるんですよね。食文化や建設文化もそう。伝統工芸というのは、それぞれの気候風土に合ったものから自然に生まれるんです」 版木は、“ヤマザクラ”という品種で作られているという。決して手に入れやすい価格ではないが、耐久性のある上質な品種だ。 そして、江戸木版画の最大の特徴が、“分業”で制作しているという点である。いったいどのような流れで木版画は作られていくのか。ここからの手順については田埜さんにお話を伺った。 「木版画は、絵師、彫師、摺師の3つの分業から成り立っています。江戸時代でいうと、歌川広重、葛飾北斎などが浮世絵師として有名ですよね。そこから彫師が板に原画を彫っていき、摺師が色を入れて摺り上げていく、というのが大きな流れです。そしてその3つの役割を束ねているのが、“版元”と呼ばれるポジションです」
高橋工房は代々摺師として、その技術を継承してきた。そして、四代目からは版元の暖簾も兼ねているという。そのことについて、高橋さんはこう語った。「先々代のころは、浮世絵の仕事がまったくなかったんです。それで何か自分たちでもやっていかなければということで、版元も兼ねることとなりました」 実際に木版画を生み出すのは絵師、彫師、摺師の役割だが、まず最初に版元が仕事を依頼しない限り、彼らの出番はない。職人たちにどのタイミングで何を描かせるべきなのか。木版画の売れ行きや話題性は、版元の判断に大きく委ねられている部分もあったのではないだろうか。」
そんな庶民の文化でもある江戸木版画。分業であるからこそ、それぞれが連携をとり協力しないと、価格を抑えながらクオリティの高い版画を作ることはできない。田埜さんは、そんな職人の工夫について紹介してくれた。「まず、彫師が彫る版木は、5〜7枚で収まるように版元から指示があります。なぜかというと、版木の数が増えれば増えるほど、木版画の価格は上がってしまうからです」 使う材料が増えるほど、販売価格が上がる。よく考えれば当たり前の仕組みだが、たった5〜7枚の版木であれほどのクオリティをどうやって実現しているのだろうか。その謎については、高橋さんが教えてくれた。
![]() 異なる版木でも紙をあてる箇所をズレないようにするための“見当(けんとう)” 「版木は両面彫ることができます。なので、彫師に5枚渡されたら、10色は摺れますよね。でも、10色ではなかなか絵にならない。なので、1枚の版木で少ししか色を使わないところは、複数の色を1枚の版木で収めることもあるんです」 限りある版木の数。ここからどれだけ工夫して数あるをおさめるかは、職人の手にかかっているということだ。単に色の数だけではなく、摺り方によっても表現の幅を広げることができる。その技法について、田埜さんが解説してくれた。
たとえばこちらの作品。空の色がグラデーションになっているのがわかるだろうか。上から下にかけて色が徐々に薄くなっていくこの技法は、「一文字ぼかし」という。
そしてこちらの作品も、空がグラデーションになっている。空の上部は同様に「一文字ぼかし」が使われているのだが、今度は奥の空が濃い色から上に上がるにつれて薄くなっていくという、逆のグラデーションが描かれている。これは「拭きあげぼかし」という、同じく“ぼかし”の技法のひとつだ。 そして、よく見ると空の色とはまた違った色で、雲が描かれているのがわかるだろうか。これは「当てなしぼかし」という技法で、ふんわりとしたぼかしを演出するための技法だ。雲などを描く際によく使われるという。
そしてこちらの雪景色が描かれている作品。よく見ると、道ゆく人の足元に降り積もった雪が立体的に描かれている。これは、絵の具を置かずに版木の凹凸を摺りとる「空摺り(からずり)」という技法だ。平面の作品であるにもかかわらず、リアルな雪の質感を見事表現している。
こちらの桜が描かれた作品。これはなかなか写真では伝わりづらいので、ぜひ本物を見て欲しいところだ。筆者は実際に手を触れさせていただいたのだが、桜がふっくらとしている。これは「きめ出し」という技法だ。先ほどの「空摺り(からずり)」同様、凹凸を出す技法なのだが、「空摺り(からずり)」は模様などによく使われることが多く、「きめ出し」は強い力でより立体感を表現する際に用いられる技法のようだ。
こちらの作品は、鯉が空に向かって登っていくところが描かれているのだが、鯉の鱗がキラキラと光っている。これは「雲母摺り(きらずり)」という技法で、“雲母(うんも)”という鉱石を粉末にして摺ることで、輝きを出している。筆者はこの技法を見て、「いつの時代もキラキラしているものは見ている人の心をときめかせるんだな……」と、少し温かい気持ちになった。きっと、当時の人たちも「きらずり」を見て、筆者と同じように目を輝かせたことだろう。
最後に紹介する技法は、「布目(ぬのめ)摺り」だ。中心に描かれている旗をよく見ると、小さく格子状に凹凸が入っている。これは版木に実際に布を貼り付け、本物の布の質感やテクスチャーを摺り取る技法だ。布を表現するために本物の布を使うという、大胆でありながら確実な技法である。 ざっと田埜さんに技法について教えていただいたが、これらはおそらく数ある技法のなかのほんの一部だろう。筆者はてっきり色の出し方や重ね方が技法の中心になっていると思っていたため、ここまで質感や立体感を出す方法があることに驚いた。改めて、江戸木版画の表現の幅を感じるとともに、当時ワクワクしながらいろんな方法を試していたであろう摺師たちの様子が浮かぶようだ。
社会における職人の存在とは
職人歴は3年目となる田埜さん。最初のきっかけは、たまたま聞いたラジオ放送だったという。「以前は、テレビの美術スタッフの仕事をしていたんです。でも業務は過酷で、昼夜逆転した生活を送っていました。その仕事は1年ほどで退職し、その後パン屋でアルバイトを始めたんです。アルバイトをしながらも、『やっぱり何か手仕事がしたい』と思っていました」 「そのパン屋はずっとラジオが流れているお店で、ある日、伝統工芸の研修会である『職人塾』がラジオで紹介されたんです。その放送をきっかけに、応募してみることにしました」その『職人塾』に訪れるあいだ、田埜さんは版画との出会いも果たしていたという。「たまたまテレビで摺師の人が出演している番組を見たばかりだったので。そのラジオを聞いたときに、『もしかしたら木版画もあるかもしれない』と思ったんです」 なぜ数ある伝統工芸のなかで、摺師にそこまで惹かれたのか。その理由について、田埜さんはこう語った。「手作業で1色1色丁寧に摺っていき、やっと1枚出来上がる。その積み重ねの世界にすごく惹かれたんです」 そうして摺師の世界に飛び込んだ田埜さん。当時についてはこう振り返った。「説明会のあとに、2週間研修をさせていただいたんです。最初は摺師どうこうというよりは、高橋工房として皆さんがどういう動きをしているのかを実感する日々でした。すごくドキドキしましたし、この忙しさについていけるのだろうかという不安も、正直ありましたね」 新たな人材を受け入れることに対し、高橋さんはどう考えているのだろうか。「2週間では何もわからないですよね。まず最初は掃除から始めます。あとはお茶出しとか、私が外でプレゼンをしたり、ほかの会社に行くときに荷物持ちとしてついてきてもらったり。そういうところから見て学んでもらうんです」 ![]() 「彫師や摺師だけがいても、経済は回りません。仕事を下さる方、作ったものを売ってくださる方、買ってくださる方がいて、初めて摺師は食べていけるのだということを、肝に銘じて欲しいんです。天狗になるなよ、と」高橋さんは強い眼差しでそう語った。筆者も職人の取材を重ねるなかで感じたことだが、職人の方は職人だけで成り立っているわけではないということを常に念頭に置いている。 つい“職人”というと、黙々と手を動かしものづくりと向き合うというイメージがあるが、仕事は決してそれだけではない。もちろんものづくりのプロフェッショナルであることは大前提としてあるのだが、世間のイメージ以上に人と人のつながりによって成り立っている世界でもあるのだということを、高橋さんの話を聞いて改めて実感した。
高橋工房の働きは、作品の制作や若手職人の育成だけではない。「経済省や文化庁の要請で、小学校や中学校に出向いて、江戸木版画について教える教育事業も行っています。数時間のうちに150人近い生徒に教えるので、組合の若手を一斉に呼んで講義を行います。話だけではなく、実際に手を動かして体験もしてもらうんですよ」 そう高橋さんが語りながら見せてくれたのが、そのときに作成したといううちわだ。色数を抑えて手軽に体験できつつ、実際の生活に使えるものを毎回選んでいるという。「工芸品は、日々生活で使われるものというのが、大事な定義なんです。『綺麗な紙の状態で持って帰りたい』という子がいても、貼り付けるよう教えています。こうしたら、大事に使ってくれるでしょ?」 高橋さんはそう笑顔で説明した。ただただ美しい作品が工芸品ではない。あくまで生活に根付いた文化だということを、体験を通して多くの子どもたちに伝えている。こういった活動も含めて、職人の役割であり使命なのだと感じた。 田埜さんが歩みだした職人への道
高橋工房の門を叩いて約4年。田埜さんは日々研鑽を重ねている。「毎日大変です。私はなかなか覚えが悪いので、教わったことをぽっかり抜かしてしまったり、思うように体と頭が動いていないことが多いのですが、自分なりに少しずつ進んでいっているつもりです。まだまだできることが少ないので、練習あるのみですね」2年目になると、少しずつ技術面の修行も始めていったという。「最初は色数が少ないものからやらせていただいてます。2、3色で完結するご祝儀袋など、いわゆる“数もの”で練習をしています」 取材後しばらくして、晴天の昼間に歩いていると、青空にひとつだけ雲が浮かんでいた。「ああ、あれは当てなしぼかしだな……」と思ったと同時に、そういうことかとも思った。きっとかつての職人たちも、こうして何気ない日常のなかで目に映ったものを描いていたのだろう。江戸木版画は、当時を生きた人たちの感覚に丸ごと触れることができる。そして、その文化はいまも続いている。もし見る機会があれば、そんな庶民の生活に想いを馳せながら楽しんで見てほしい。 |
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- 2025.10.08
- 22:34
想いを紡ぐ“銀”の世界 生活に少しの特別感を添える「用の美」とは
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「銀師」(しろがねし)という職人を知っているだろうか。彫金師や金工師など、金属を扱う職人の呼び名はいくつかあるが、「銀師」はその名の通り“銀”を扱う銀細工職人のことを言う。 今回は、12代に渡り銀師を受け継いできた、『日伸貴金属』の取締役で長男の上川善嗣さんにインタビュー。あらゆる可能性を秘めた銀の世界、そして作品に込めた想いを聞いた。
銀を打てば人生が滲み出る?
日常生活で“銀”が使われているものといえば、食器やアクセサリーなどがすぐに思いつくだろう。では、昔の人たちは銀をどんなふうに使っていたのだろうか。絶えず人々の生活に根付いてきた銀の歴史について、上川さんに教えてもらった。 「銀の歴史は古く、諸説ありますが、日本には仏教とともに伝えられたといわれております。当時はいまと違って、銀は平安時代の朝廷の儀式などに使われていたんです。そこからまた歴史は流れ、戦国時代では刀の鍔などの装具として使われたり、江戸の安寧の時代にはかんざしや鎧兜など、銀は文化の繁栄とともにさまざまなものにかたちを変えて使われてきました。うちの親方筋は、江戸幕府からのご注文で鎧兜やお茶道具を作らせていただいたこともあるんですよ」 先代が江戸幕府からの注文を受けたことがあるのには驚いたが、上川さんは12代に渡り技を受け継いできた銀師だ。銀とともに長い歴史を紡いできた存在でもあるため、そんな話が飛び出してくるのも納得だ。
銀器は“鍛金”という、金槌などで打って成形をしていく過程がかなり重要になってくる。銀は思っている以上に柔軟だ。だからこそ繊細で、そこに職人の腕が光る。
そこで上川さんは、筆者にとあるクイズを出した。「これは銀“1グラム”になります。この銀を髪の毛よりも細く伸ばしていくと、どのくらい伸びると思いますか?」 一度考えてみてほしい。ちなみに筆者は、『手の平いっぱいくらい』という回答をした。 「常識的な長さですね。正解は……2キロです。銀は金属のなかで2番目によく伸びます。ちなみに1番伸びるのは金なのですが、同じ条件だと3キロくらい伸びるようです」 このクイズを受け、改めて銀の無限の可能性を感じた。どうしても銀と聞くと金属で硬いものというイメージだが、銀の世界は自分が思っているより遥かに自由なのかもしれない。
こちらは、上川さんが実際に銀器を作るときに使用している「木台」と「金床」だ。いくつか穴が空いたものが木台、真ん中に刺さっているのが金床だ。「この木台は“山桜”という木でできていて、もう7、80年ものあいだ使っています。山桜は銀器と非常に相性がいいんですよ。直接木台の上に銀を置いて打っても、銀が傷つきづらいんです」
使い方としては、表面にいくつもある窪みを使って、銀を曲げていくようだ。“山桜”という木は、過去の職人さんの取材のなかでもたびたび登場した木材だ。職種を超えて同じものが使われているということは、長く日本の職人に愛された木なのだろう。
そして今回、筆者も鍛金を体験させてもらった。銀に対して垂直に金槌を構え、そのまま振り下ろす。“打つ”という動作はすごくシンプルであるものの、想像以上に難しい。また、「どこまで打ったら正解なんだ……?」という疑問もあった。 「銀器のほんものの職人は、“逆算”して作るんです。やろうと思えばいつまでも打ててしまうので、やめどころがわからなくなるんです(笑)。打てば打つほど銀は光って、鍛えられます。でもお客さまからのご注文の品を作る場合は、永遠に打つわけにもいきません。なのでお渡しする日からすべての工程を逆算していって、鍛金の工程も時間で区切りをつけて行います」
時間で区切るという方法には、思わずなるほどと膝を打った。鍛金の工程は、一度始めたらすべての面を同じ強度に揃えなければいけない。ただ何回打ったのかをいちいち数えることは不可能なので、時間で区切り打った回数を単純計算して強度を確かめ、時間と感覚を研ぎ澄ませて「心・技・体」で作るということだ。だがそれには、打つスピードや力加減が常に一定であることが前提になる。そこもまた、職人の技量によって成せる技なのだろう。
こちらは、上川さんが制作したオリジナルの水差しである。側面には親子のたぬきが描かれており、お花見をしているようだ。「実は、この水差しは長男が産まれる少し前に作り始めたんです。このタヌキの親子のように、子どもと一緒にお散歩をして景色を眺められたという想いを込めました。タヌキの周りの部分を打つことで、タヌキを立体的に見せることができるんです」
水差しは、くるくる回すといろんな顔を見せてくれる。ふっくらとしたタヌキが見つめるのは、カラフルな花たちだ。「花に色がついているのは、『打ち込み象嵌(ぞうがん)』という技術になります。この技術は人間国宝の先生に教えていただいたのですが、ほかの材料を叩いて埋め込んでいくという技法になります。タヌキを立体的に見せる技法は別の彫金専門の先生から教えていただいたのですが、最初に見学させていただいたときは、『彫金をやるなら、代々続く銀師という名前を全部捨て一生をかけても、彫金をすべて習得することはできないんだよ』と言われていたんです。 「それでも何度か休みの日に通って見学させていただいていると、少しずつ教えていただけるようになって。この作品は、そんな先生方からの学びと、子どもが無事に生まれてきますようにという祈りを込めて作りました。非常に思い入れのある作品です」
職人が職人であるために
上川さんが開催している体験教室では、性別年齢職業関係なく、さまざまな人がやってくるという。「お客さまによって、打ち方も全然違うんですよ。たとえば、よくお寺参りに行くというご年配の方は、お経を唱えながら打つんです。そうすると、自然とその人にとって落ち着くリズムになるようです。ギタリストの方が来たときは、肩を入れてタンタンタンと綺麗に金鎚の芯を当ててうてるんですよ。いつも似たような動きをしているから、やりやすいみたいです。また華道やお習字の先生なんかは、指先を流れるようにコントロールして打つんですよ」 上川さんは体験教室で銀器の作り方を教える際に、心地いいリズムをお客さまに見つけてもらうことを意識していると語った。銀を打つというのはシンプルな動きなのだが、それぞれの人柄や人生が表れるようで面白い。 ![]() 体験教室には、海外の人たちも大勢やってくるという。「アジアからヨーロッパまでいろいろな国の方が来てくれますが、もともと自国で銀器にゆかりのある地域の方々も多いです」 「国によって銀器の文脈は異なります。銀は貴族が使うものという認識の国や、復活のシンボルであるゴブレットとして使う国、昔は毒殺を避けるために使う国もありました。それぞれの国に根付いた銀器のスタイルがあるのですが、うちで銀器作りを体験していただくと『日本にはこんなに種類があるんですか』と驚く方も多いです」 国それぞれの銀の文化があるようだが、“自分で作ることができる”というイメージはあまりないようだ。「来ていただいた海外の方からは、これだけの歴史があるのに、この地域はもったいないという声をいただくこともあります。まだまだ日本の銀器のブランディングが至っていないことを痛感しますね」 そんな銀の世界だが、コロナ禍では関東近郊の銀器を取り扱う会社の約60社から20社以上が廃業に追い込まれたという。さらに、関東近郊の銀師の約3分の1が80歳以上。そして3分の2が大きな事業であり、上川さんのように家族で技を受け継ぎ工房を公開して活躍している銀器職人は、関東ではほぼいないようだ。 「もう本当にいないです。ちなみに減っているのは職人だけではなくて、工具屋さんもかなりいなくなっています。この金床を作ることができるのも、おそらく関東でも1、2軒くらいなんじゃないかな……。作る人が減ると、その分工具の値段も上がりますしね。昔は1万円くらいで作っていたのが、いま発注しようとすると5〜60万くらいになるのではないでしょうか」
“工具の作り手不足”という課題は、取材した限りではほぼすべての職人の悩みの種だ。職人がいても、職人が使う道具を作る人材が増えないと、技術を継承していくことは難しい。では「その過程を機械化してしまえばいいのでは」と思うが、それはもはや伝統工芸ではなくなってしまうのだ。 「それでも、元気な地域はあるんです。だから同じ組織同士で情報共有をしたり連携を取らないと、結局『廃業するしかない』という結果になってしまいます。やっぱり職人って、自分の腕だけではないんですよね。いろんな背景があって、いろんな縁があって、そこで初めて自分が作らせてもらっているんです」
付加価値を知ってもらために
課題はそれだけではない。かつて、日本は世界有数の銀の産出国であった。よく銀が採れたからこそ、日本では銀器という文化が発達してきたのだ。だが、銀山の閉山や、鉱脈の枯渇などで、いまは昔ほど銀が採れなくなってしまっている。
「昔なら10個作品を作ることができた銀の値段で、いまは1個しか作れないときもあります。価格のバランスを取りながら伝統工芸を続けていく、というのは本当に難しいことなんです。ただ、いまは“都市鉱山”といって、不要な電化製品などから金属を再利用する方法が発達してきているので、まったく銀が手に入らないというわけでもないんですけどね」
原材料の希少性が上がると、値上げは避けられない。「たとえば、1万円の作品を6000円にするとなると、その分時間をかけて作ることが難しくなります。なかには、銀メッキでもいいと思う人もいるかもしれません。もちろんその方が安く効率的に大量生産ができます。でも、“打つ”ことだけは外してはいけないんです。銀を打たないと、それは銀器という伝統工芸品ではなくなってしまうから」 「どうして銀器はその値段で販売しているのか。その“付加価値”を知ってもらう方法を、上川さんは模索し続けている。 「たとえば、同じ伝統工芸の江戸切子さんは、店舗の機能も併せ持った工房を構えているところがあるんです。そんな風に、未来に向けて、今から身近に銀器を知ってもらう環境を組合全体で作っていかなければいけないですよね」 原材料の高騰や付加価値を伝える方法など、今後向き合うべき課題は多いが、いまだからこそ作ることのできる“新たな銀器のかたち”も誕生しつつある。
「こちらはアイススプーンになります。銀は金属のなかでもっとも熱伝導率が高いので、アイススプーンにぴったりなんです。手の平の体温が伝わり、ちょうどいい溶け具合でアイスを食べることができます。スプーンの表にはお客さま自身で好きな模様を彫ってもらい、ボウルの部分は好きな角度に曲げてもらうこともできるんです」
アイススプーンは、お客さん自身の手で加工ができる。世界にひとつだけの品を作ることができるため、ギフトとしても人気のようだ。「伝統工芸品は“用の美”であることが重要です。なかには観賞用だったりアーティスティックな作品もあるのですが、基本的には日常生活をともにする「用の美」という工芸品なので、日々の生活で銀器を使ってくれると嬉しいですね」
(参考:https://www.furusato-tax.jp/product/detail/13106/6514135?srsltid=AfmBOoqOlGmoWs0vFnLe7NfLDc4jsnnpm9UNySLlfLH5UMMc0WciBEWK ) ![]() 改めて、上川さんは職人の人生を振り返りこう語る。「職人にとって“一人前”っていうのは、あくまでも他人軸からの評価だと思うんです。だから『どこまでできたら一人前』っていうのはないんですけど、僕のなかでは10年というのがひとつの区切りになっていて。人脈も技量もそうですけど、まずは10年続けてみると、ひとつの節目になるのかなと思います」 そして、今後の職人のかたちについてもこう語った。「僕らの時代は世襲や親方じゃないと意見してはいけないという雰囲気がありましたけど、いまは令和なので。世襲じゃなくても、職人の本質を理解していただけるのであれば、今後もいい文化で新たな世代と銀器を続けていけたらと思っています。大事なのは志です。それさえ忘れなければ、もっといろんな職人のかたちがあるのではないかと思っています」 ![]() 上川さんの取材を経て、改めて銀の世界の広さを知ることができた。筆者が想像していた以上に、銀は国を超えて多くの場所で愛され、使われてきた存在だったのだ。そういった長い歴史と広い世界を踏まえて、今後銀器という文化をつなげていくことの重要性も同時に感じた。 どうしたらこの価値が伝わるのだろうか? きっとショーケースに並んでいるだけでは、銀器はもちろん伝統工芸の価値というものはなかなか伝わらないだろう。 もし機会があれば、上川さんが開く体験教室も覗いてみてほしい。実際に手で触れるからこそ知ることができる魅力が、そこにはあるはずだ。 |
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- 2025.10.08
- 22:43
会社員から竹工芸職人へ。細川秀章さんのあくなき挑戦
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竹工芸というと、茶道具や花入れなど、格式の高い非日常的な伝統工芸品という印象を持つ方が多いだろうか。しかしそんなイメージを軽やかに飛び越え、現代の装いにしっくりと馴染む竹籠バッグを制作している工房が京都にある。「竹工房 喜節(きせつ)」だ。 工房を立ち上げたのは、元会社員という珍しい経歴を持つ竹工芸職人・細川秀章さん。31歳で伝統工芸の世界に飛び込み、これまでに「全国伝統的工芸品公募展」内閣総理大臣賞をはじめ数々の賞を受賞。細川さんの手掛ける竹籠バッグは現在なんと半年待ちだ。美しさと実用性を兼ね備えた手仕事が、多くの人の心を掴んでいる。
家業でもなければ、若い頃から修行していたわけでもない。それでも会社員という安定した暮らしを手放して職人の道に飛び込んだのだから、並々ならぬ覚悟があったはずだ。その道のりと今に続く想いを伺うべく、細川さんの工房を訪れた。
現代の装いに馴染む、網代編みの竹籠バッグ
竹工房 喜節は京都・二条城の北西、大通りから一本入ったところに暖簾を掲げている。観光客で賑わうエリアとは違った落ち着いた雰囲気に、ほっと心が落ち着く。目の前には小学校があり、登下校の時間には子どもたちの声が賑やかに響くのだという。 工房で作られているのは、網代(あじろ)編みの竹籠バッグ。京都産の良質な真竹を使い、細く割った竹ひごを編んでいく。この「網代編み」という編み方は縄文時代から使われており、まさに日本人の暮らしと密接に結びついている伝統技法だ。
「僕らの仕事は材料作りをきっちりしないといけないんです」と細川さん。竹籠と聞くと、“編む”作業に注目したくなるが、実は一番神経を使うのは、その前段階の材料づくりなのだという。 作るものの形や大きさ、編み方に合わせて、竹ひごの厚みや幅を細かく調整する。たとえば、トランクは6.3ミリ幅の竹ひごを156本使って編む。幅にバラつきがあるとバッグのサイズが変わってしまうため、商品として継続的に作り続けるにはミリ単位の正確さが欠かせない。 だが、竹は自然素材。柔らかさなど、一本一本に個性がある。 「同じように割っても、竹によってやはり違いがあります。だから割ってみて、『今日はこんな感じかな』というのがわかったら、そこに自分の手を合わせていくんです」 素材の声に耳を傾け、それぞれの竹の性質を見極めて微調整を行う。経験を積み重ねてきた職人だからこその繊細な技が光る。 その精密さゆえに、初めて商品を見た人からは「全部機械で作っているんでしょ?」と言われることがよくあるのだそうだ。逆説的だが、技術を高めるほどに手仕事らしさは失われていく。 そんな卓越した技術を身につけるまでに、一体どのような道のりがあったのだろうか。
30歳が近づくにつれ、自分のやりたいことを考えるようになった
細川さんは職人になる前、東京の印刷会社に11年勤めていた。 「当時は就職するのが当たり前の時代だったので、特に明確なビジョンを持たないまま印刷会社に入りました。ですが年数を重ねていくうちに、良い印刷物をつくりたいという気持ちが芽生えてきたんです」 熱意を持って仕事に取り組むようになったが、組織である以上、自分一人の意思だけで作り上げることはできない。結果が伴わないことも度々あった。悶々とするなか、気づけば30歳が目前に。自分の本当にやりたいことは何なのかと考えるようになった。 「自分がやったことがお客さんにちゃんと届いて、良くても悪くてもちゃんと自分に返ってくる。そういう仕事がしたいと思うようになりました」
そうしてたどり着いたのが、手仕事であり、伝統工芸の世界だった。もともと、ものづくりが好きで得意だった細川さん。百貨店で職人の実演が行われていれば、飽きることなくずっと見ていた。 職人になる方法を調べるなかで、「京都伝統工芸専門学校(現大学校)」の存在を知り、入学を決意。木工や陶芸、漆など、さまざまな専攻があったが、細川さんが選んだのは“未知の世界”の竹工芸だった。 「他の工芸には趣味の教室や入門書がありましたが、竹籠作りだけは取っ掛かりが見つからなかったんです」 インターネットが今ほど発達していなかった時代。材料の入手方法も、どうやって籠の形になるのかも、全く想像がつかなかったという。 「これは本格的に教わらないとできない技術なんだろうなと思いました」
また、竹工芸を選んだ理由には子ども時代の思い出もあった。 「小学生の頃、竹とんぼを作っていたんです。公園に竹の切れ端がいっぱい置いてあって、なぜか僕は小さいナイフを持っていたので、それで竹を削っていました。あの頃はいかに高く飛ばすかを考えて、ひたすら作っていましたね」 「いろいろと工夫するのですが、自分でこうしたいと思ったことができたんですよね。だから竹という素材が、自分と相性が良いのだろうなという感覚は漠然とありました」
竹と他の木とでは、作るときの自由度が大きく違うのだそうだ。 「木は自由度が高くて、途中で切り方を変えることもできますし、削りすぎれば軌道修正ができます。でも、竹は繊維がしっかり通っているので、後戻りはできません」 しかしその制約があるからこそ、明確に方向性を決めて迷わず進むことができるのだという。竹という素材がもつ潔さと、職人の世界に転向した細川さんの生き方は、どこか似ている。
とにかく夢中で修行した2年間
京都伝統工芸専門学校は、京都府のほぼ中央、南丹市園部町にある。京都市内まで買い物に出るには電車で1時間ほど。都会のような便利さはなくなったが、余計なものがない環境は、むしろすごくよかったのだと振り返る。 「技術を得るために学校に入ったので、学ぶことだけに集中できました。金銭的にも余裕がなくて切り詰めた生活をしていましたから、そういう意味でも、最低限の暮らしができる環境でよかったなと思っています」 入学1年目の年末までは収入ゼロ。貯金と会社の退職金、そして会社員時代に乗っていた車を売ったお金で生活していた。アルバイトをしようにも、園部町は求人が少ないうえに大学生が優先的に採用されるため、なかなか雇ってもらえなかった。 「こうなったら2年間アルバイトなしでやろうと思ったのですが、ちょうどその時に、アパートから徒歩15秒のところにあるお弁当屋さんの求人を見つけて。ダメ元で応募したら採用してもらえました」
週4日アルバイトに入りながら、それ以外の時間はひたすら竹工芸に没頭した。毎朝早くから学校に行って作業。授業後も学校が閉まるまで作業。家に帰ってからも作業。休日も実習室へ行き…… 「『お前、学校に住んでないか』って言われるぐらいずっといましたね」 体力的にかなりハードな生活だったはずだが、後ろ向きな感情を抱くことは無かった。 「とにかく教わりたいというのと、教わったらそれを実践したいという気持ちだけでしたね。学校の課題とは別に、習った編み方で自分なりに竹籠を作ってみたりもしていましたし、とにかく楽しかったです」
「バッグの形の竹籠」ではバッグとは呼べない
2年後、晴れて卒業を迎えたが、需要が先細るなか弟子を募集しているところはほとんどなく、弟子入り先を見つけることは叶わなかった。 学校や知人のツテを頼りに仕事を受ける傍ら、卒業制作で高く評価されたトランクケースを足がかりに竹籠バッグの商品開発に取り組んだ。そして2011年、37歳で「竹工房 喜節」を立ち上げる。 三十歳を過ぎて一から技術を学び始めるのもすごいことだが、やむを得ずとはいえ弟子入りすることなく自力で道を切り開いてきたことには、ただただ驚かされるばかりだ。
これまでに苦労したことを尋ねると、「いろいろありましたけどね」と細川さん。 「それまで商売をしたことがなかったので、帳簿をつけて確定申告をするというのがまず大変でしたね。それは学校では教わらなかったですから」 会社では分業が当たり前だが、独立すればすべてを自分でやらなければならない。ものを作ることだけに集中していればいい、というわけではないのだ。職人を目指す人にとって、意外と見落としがちなポイントかもしれない。 また、商品作りにも苦労してきたという。 「『バッグの形の竹籠』は、バッグではないんですよね。バッグとしての機能や使いやすさも考えなければいけません。それが一番難しいところであり、覚悟が必要でした」
ブリーフケースの試作品を百貨店のバイヤーに見せたときに返ってきた言葉は、「もっと良い革を使った方がいい」「金具をもう少し良くしたほうがいい」といった、竹とは関係ない部分への指摘ばかりだった。 「竹のことは何も言われないんですよ。でもバッグとして売る以上、『そこは専門じゃないんで』なんて言えない。だから竹以外の部分は、専門のところに頼んだり、本で勉強したりしました」 「バッグとして売ることがそう簡単ではないということに、足を踏み入れてから気づきましたね」
数々の困難にぶつかりながらも、これまでに一度も嫌になったり辞めたいと思ったりしたことは無いと言う。 「自分のやりたい道に進むことができて、今も続けられている。こんなに幸せなことはないですよね」
お客さんに求められるものを作り続ける
竹工芸のやりがいは、どのようなところにあるのだろうか。 「竹工芸は生活の道具を作る技術だと思っているので、人に求められるものを自分の技術で作ることができた時が一番やりがいを感じますし、嬉しいと思う瞬間ですね」 生活の道具、と細川さんは話すが、その繊細な見た目から、現代では飾るもの・特別な日に使うもの、といった印象を持つ人も多い。 「そうなんですよね。そこが大きなやりがいであり、難しいところでもあります。工芸品には『作品を作る』というイメージがあるかもしれませんが、僕自身は作家ではなく、職人です。いわゆる作家として自由に形を作ってと言われると、手が進まないタイプなんです」
では、職人とは何か。その答えは明快だった。 「『こういうものがほしい』というお客さんからの要望を聞いて、それに沿うものを自分の技術で作る。これが職人の仕事なんですよね。いくら『私は職人です』と言っても、誰からも求められなければ作るものがありません」 作家は自分で表現したいものを生み出し、それに共感した人が買ってくれる。一方で職人は、相手の存在があってはじめて成り立つ仕事。細川さんの生み出すバッグの美しさは、使い手のことを考えた“用の美”なのだろう。 とはいえ正直なところ、バッグとして使うには丈夫さが気になる。 「自然素材の中では、竹は耐久性の高い素材です。それに、きちんと使えるものを作るために、用途や大きさから逆算して材料や編み方を考えていますから、そう簡単に壊れることはありません」 すると、工房に飾られていたトランクを指し示し、あれは10年以上使っているのだと教えてくれた。海外旅行にも持って行っているのだそうだ。
「何代も続いている工房なら、昔に作られたものを見せれば耐久性をわかってもらえます。でもここは僕が始めた工房なので、自分で強度や修繕方法を実証していかないといけないんです」 てっきり新品のサンプルが並べられているのだとばかり思っていた。それくらい、劣化した様子もなく美しかったのだ。持ってみると、とても軽い。革のバッグのようなずっしりとした重さがなく、快適に持ち運びできそうだ。 さらに、竹籠バッグは使い続けるほどに艶が増し、色も変化していくという。昔から「竹の籠は手脂で仕上げる」と言われているのだそうだ。
「茶色に染めているバッグは、だんだんと色が薄くなっていきます。この黒に近いクラッチバッグも、ずっと使っていればトランクぐらいの明るい茶色になりますよ。逆に白竹のバッグは飴色に変わっていって、より深みが増していきます」 鞄や財布、靴を“育てる”のが好きな人にはたまらないポイントだろう。取材中にもかかわらず、少しでも早く購入して共に時を過ごしたいと、購入を真剣に考えてしまった……というのは、ここだけの話。
京都の竹を使った、真のメイドイン京都のものづくり
細川さんの工房で使われている竹は、すべて京都産だ。今、多くの伝統工芸が原材料の確保に苦労している。国内で手に入ればまだいい方で、日本の伝統工芸品でありながら、材料のほとんどを海外からの輸入に頼らざるを得ないのが実情だ。その点、京都には良質な竹材が採れる竹やぶが豊富に残っている。 「京都の職人が、京都の竹だけを使って工芸品を作れるというのは、すごく恵まれていて、大きな強みです。胸を張って『メイドイン京都』と言えます」 最近では、京銘竹を使った商品づくりにも取り組んでいる。京銘竹とは、京都産の竹を伝統技法で加工した竹材のことで、京竹工芸と同じく「京もの指定工芸品」に指定されている。 「商品だけでなく竹そのものの価値を高めることで、竹工芸全体のブランド価値を上げていきたいと思っています。その第一歩として、まずは京銘竹を使った籠作りに取り組んでいるところです」
好きを超越して続けられるか
細川さんには、竹工芸に携わる人を増やしたいという想いもある。工房には今年で7年目となる弟子が一人いるが、これからは業界全体で雇えるような仕組みも作っていきたいと考えている。 多様な仕事を経験すれば、技術も向上し、応用が利くようにもなる。さらにいろいろな繋がりが生まれていくなかで、自分の方向性を見つけて独り立ちしていける――そんな環境にしたいのだと、細川さんは未来を思い描く。
伝統工芸の職人に興味がありながらも、なかなか一歩を踏み出せないという人たちにとって、細川さんの存在は間違いなく後押しになるはずだ。しかし実際のところ、年齢はハードルになるのだろうか。 「作業をする上では若い方が有利な部分が多いです。飲み込みも早いし、体に覚え込ませるという意味でも早い方がいいと思います。50歳を過ぎれば老眼にもなってきて、細かい作業がやりにくくなってきますから。でも、モチベーションの部分でいえば、年齢は関係ないと思います」 会社員時代の経験も、決して無駄ではなかった。取引先とのやり取りや段取りの考え方など、会社勤めで身につけていたからこそ、スムーズにできていることもたくさんある。
では、職人になるために必要なことは何か。細川さんは、「単純に器用・無器用という向き不向きではなくて、職人としての資質があるかどうかだと思います」と話す。 「物作りが好きな人でも、本当にずっとそれを作り続けられるかは、また別の問題です。自分が作りたいと思って生み出した商品でも、作り続けていたらやっぱり飽きるんですよ。でも、注文がある以上は作らなければいけません」 「そうなった時に、飽きる・飽きないを超えて、当然自分が作るべきものと思って継続して作っていけるかどうか。やりたい・やりたくないにかかわらず、勝手に身体が動くかどうか。それが職人の資質だと思うんです」 “好きを仕事にする”というのは、ただ好きなことだけをやっていればいいのとは違う。 「昔の徒弟制度では、何年も下働きばかりやらされて、それを乗り越えてようやく道具を渡された、という話を聞きます。自分は作るために入ったのに、掃除ばかりやらされたり、理不尽な要求ばかりされたりする。でもそれに対して100パーセント応えなければいけない。それを続けられる人が残って、職人になっていったわけです」 「今の時代でそれをやったら完全にアウトですが、職人仕事に関しては、ある程度そこで資質を見極める意味もあったんじゃないかなと思うんですよ」
最近は、職人の世界でも“ホワイトな”環境づくりに意識的に取り組んでいる。働きやすくなった一方で、自分に職人の資質があるかどうかを、早い段階で見極める機会を失っているのかもしれないというのは、思いもよらない視点だった。 「よく素質がある・ないと言いますが、僕は、興味を持った時点で、もう素質はあると思うんです。素質はあるから、やりたいと思うんだったらやるだけです。あとはその素質を本質に変えられるかどうかですよね。それは努力次第です」 自分の選んだ道を迷わずに進み、日々努力を積み重ねる細川さんの姿は、まさに竹のように強く、しなやかで、真っ直ぐだ。使い手のことをとことん考えて編み上げられた竹籠バッグには、そんな細川さんの想いと技が宿っている。ハレの日だけでなく、何気ない日常の中でこそ、このバッグと共に時を重ねていきたい。心からそう感じた。
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- 2025.08.11
- 11:20
情熱を無駄にするのはもったいない 若き江戸切子職人・坂本優輝が見据える職人の未来
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江戸切子の魅力は、その圧倒的な“美しさ”にある。あらゆる角度から差し込まれる光が反射し、繊細な模様を写し出だす。その儚い美しさに、不思議と惹き込まれてしまうのだ。 今回は、堀口切子に所属する江戸切子職人・坂本優輝さんにインタビュー。高校生で切子職人を目指した背景と、伝統を受け継ぐことに対しての想いを聞いた。
190年の歴史を持つ伝統工芸
![]() 「籠目ニ菊繋文切立盃(かごめ に きくつなぎもん きったてはい)」 そもそも、“江戸切子”とはなんなのだろうか。坂本さんに、江戸切子という伝統工芸について教えてもらった。「江戸切子というのは、ガラスの表面を削ったり磨いたりと加工を施したガラス製品のことを言います。始まりは1834年、江戸の日本橋大伝馬町。加賀屋久兵衛(かがやきゅうべえ)という方が製作したのが始まりと言われています」 およそ190年の歴史がある伝統工芸、江戸切子。きっと当時、江戸切子を始めてみた人も筆者と同じくその美しさに目を奪われたことだろう。 そして坂本さんは、江戸切子に4つの定義があることを説明してくれた。「1つ目はガラスであること。2つ目は、手作業で加工をしていること。3つ目は、主に回転道具を使用していること。4つ目は、東京都近郊で作られていることです」 江戸切子と聞くとグラスに模様が彫られているイメージもあるが、いまの条件を聞く限りガラスであればほかにも作品の幅はありそうだ。「江戸切子はグラス以外にも、ぐい呑、照明の器具、トロフィーなどにも使われていて、柔軟で自由度の高い工芸なんです」
とはいえ、どうやって手作業でここまで細かい模様を入れているのだろうか。坂本さんに、江戸切子の大まかな製作工程について教えてもらった。「まず最初に行うのが、“割り出し”という作業です。これは、カットの基準線を引く工程になります」
坂本さんが修行を始めて最初に覚えたのも、この“割り出し”だという。「江戸切子の作業にはやり直しが効くものと効かないものがあるんですけど、割り出しは基本的にやり直せる作業になります。と言ってもこの割り出しには、江戸切子のノウハウが詰まっている大事な工程なんです。最初の基準になるので、そこがブレてしまったら元も子もないんですよ」 割り出しは、最初に書く設計図のようなものだろう。「割り出しでは必要最低限の縦と横の線だけを引いていきます。よく細かいカットの斜めの線も引くのですか?と聞かれますが、割り出しの線が増えると、割り出しにかかる時間も多くなり、カットをする際に分かりづらくなってしまうので基本的には引きません」
江戸切子の設計図を見せながら、坂本さんは割り出しからどのように工程を重ねていくのかについて解説してくれた。「割り出しが終わったら、次は“粗摺り”という工程になります。粗摺りでは、まずはざっくりと模様を削っていきます。そのあと“三番掛け”という工程で、粗摺りの部分より細かくなめらかにカットを施します」
「粗摺りと三番掛けには、ダイヤモンドホイールという工具を使うんです」そう言いながら坂本さんが見せてくれたのは、棚一面に収納されたダイヤモンドホイールの数々だ。作品に合わせて、使用するダイヤモンドホイールの粗さや幅が違うようだ。削る技術はもちろんだが、これだけある道具の見極めも、作品の出来栄えにかなり影響してきそうだ。
ダイヤモンドホイールは、人工のダイヤモンドが埋め込まれている工具で、よくみると表面がキラキラしている。この工具を駆使して細かい模様が削りだされているということはわかるが、それにしてもあそこまでの細かさを出せるのはやはり不思議だ。 「三番掛けは目の細かいダイヤモンドホイールを使うのですが、目が細かいということは研削力としては落ちるわけです。削る労力を減らすためにも、最初に粗摺りでざっくり削る必要があります。その一方で、細かい文様を入れる箇所は粗摺りを通す必要がないので三番掛けのみで行うこともあります。製作工程として、すべての工程を必ず通らなければいけないわけではなくて、必要に応じて工程や道具を選択していきます」
“ガラスを削る”という行為はあと戻りができない。もしズレてしまったり、間違えて削ってしまったらどうするのだろうか。「自分も結構そそっかしいタイプなんで…(笑)。当て間違えないように気をつけてはいますが、たとえば黒いガラスを取り扱うときは光を通してくれずダイヤモンドホイールが当たるところが見えにくいので、最初当てたときに基準線から少しズレてしまうということはありますね。でも、最終的に削る幅というのがあるので、削りながらその範囲内に収まるように調整していきます」
そう解説し、坂本さんは目の前で削る様子を見せてくれた。筆者の体感だが、数秒のあいだにカットされている部分が増えており、「いま削ってましたか?」と心のなかで確認してしまうほどあっという間に、坂本さんは綺麗な模様を削っていた。坂本さんは27歳という若さながらも、職人歴は9年目になる。何気なく見せたプロの腕に思わず圧倒されてしまった。 そんな坂本さんが、覚えるのに1番苦労した工程は“磨き”だという。「磨きは三番掛けや石掛けのあとに行う工程です。樹脂製のパッドに研磨剤をつけて、削ったところをなぞるように磨いていきます」
「綺麗に磨くには、親方や先輩の削った通りに手を動かさないといけないのですが、上手く磨けないと“磨き残し”といって、白っぽく残ってしまう部分が出てくるんです。当時はその磨き残しが出ないように磨こうと思ってもなかなか上手くできませんでした。その品物については納品日があったため、できるだけ早く仕上げようと思ってもなかなか仕上がらず、先輩の手を煩わせてしまったこともしばしばありました。今ではだいぶ習得しつつあるとは思いますが、まだ高みには至っていないなと思います(笑)」 9年目にしても「至っていない」と語る坂本さん。改めて、職人の技術にゴールはないことを感じた。以前の取材でも感じたが、どんな職人さんもずっと理想のクオリティを追い求め続けている。ものづくりに正解はない。だからこそ、理想を追い求める情熱がどれだけあるのかが試されるのだと感じた。
「情熱を無駄にしちゃうのはもったいない」
坂本さんが切子の世界を知ったのは、高校生のころだったという。「昔から流木を拾って木刀を作ったり、石を削って勾玉を作ったり、ものづくりが好きだったんです。あとは、色のついたビー玉とか宝石とか、キラキラしているものも好きでした。高校2年生の夏休みのときに、テレビで江戸切子の特集をたまたま見て。『すごく綺麗だな』って思ったんです」 「それからインターネットで江戸切子のことを調べていたら、『堀口切子』のことを見つけたんです。親方の作品や、『黒被万華様切立盃(くろぎせ まんげよう きったてはい)』を見て、“こんな素敵なものを作る職人になりたい”と思いました」 ![]() 「黒被万華様切立盃(くろぎせ まんげよう きったてはい)」 坂本さんは当時、進学と就職でちょうど迷っていた時期でもあったという。そんな偶然のタイミングで切子と出会ったことも、大きかったのかもしれない。「先生に相談したら、『インターンをやってみたらいいんじゃないか』と言われたんです。でもインターンを募集している工房なんてそうそうないし、そもそも自分自身『インターンって何?』っていう感じでした。そしたら先生が話をつけてくれて、1週間インターンに行けることになったんです」 だが、告げられた行き先は『株式会社堀口硝子』だったという。「『株式会社堀口硝子』は、親方のお父さまの会社なんです。だから、あれ?と思ったんですけど、行ってみたらすごく歓迎してくれて江戸切子の作り方や歴史など色んな事を勉強させてもらいました。そのインターンの最終日にたまたま親方が堀口硝子の工場にいらっしゃって。堀口切子の工場を見せてくれることになったんです」 念願の『堀口切子』。坂本さんは、代表である三代秀石・堀口徹氏に、切子への思いを伝えたようだ。「あの1日がなかったら、ここに就職できていなかったと思っています(笑)。自分は本当に運が良かったんです」
「いまは親方含め6人が働いているのですが、そのときは親方と先輩の2人でやっていて、ちょうどもうひとり欲しいなっていうタイミングだったようです。いまでも思うんですけど、この業界は入りたいと思って入れる業界じゃないというか。応募する人にとっても一期一会の出会いかもしれないですけど、その前に会社側が受け入れられる状況じゃなかったり、雇用するにしても体制が整っているかいないかなどもあると思います。つくづく、自分は運が良かったです(笑)」 そう笑顔で話す坂本さん。たしかに人生の出会いやきっかけは巡り合わせというものがあると筆者も思うが、本当にそれだけだろうかと、坂本さんの話を聞きながら思っていた。進路に迷っているタイミングで江戸切子を知ったことや、親方さんとの出会いはたしかに偶然かもしれないが、最初に「これを作る職人になりたい」という坂本さんの思いと行動がなければすべてはなかったことなのではないだろうか。 坂本さんは北海道出身だ。高校2年生の17歳、インターンとはいえ東京の職人の仕事場にやってくる行動力と勇気が、果たして自分が17歳のころにあっただろうか。
当時の決断について振り返りながら、改めて職人に必要だと思うことについて坂本さんに聞いてみた。「『思い立ったが吉日』という言葉がすごくいいなと思っていて。何をするにも、やりたいなって思ったときが1番情熱に溢れているじゃないですか。それを先延ばしにしてしまったら、ちょっと自分のなかでサボる気持ちが出てきてしまうような気がして」 「やりたいって思ったんだったら、やってみればいいんじゃないって思います。これは職人の道を目指すことに限った話ではないかもしれないんですけど、そのときの熱量ってやっぱり自分がやりたいからだし、その情熱を無駄にしちゃうのはもったいない。自分みたいに運よく受け入れてくれるところがあるかは別なんですけど、人生1度きりのなかで、『やりたいな』って思ったことを、思ったときに行動に移すっていうのがすごく大事なんじゃないかなと今になって思います。もしそれが失敗に終わっちゃったとしても、その気になったら意外とどうとでもなるんじゃないかと思うので(笑)。いまを大事に生きることが大切なのかなと思います」
自分たちの生きる時間は、これからの伝統になる
職人として初めて手がけた商品は、『よろけ縞』だと坂本さんは振り返った。「縦線を連続で入れていくデザインなんですけど、このよろけ具合だったり、どれぐらい節をつけるかとか。シンプルに見えてすごく難しいんです。当時は、使っていないグラスを数十個ほど練習で使わせてもらってから、本番に臨みました。すごく緊張したのをいまでも覚えています」 「いまは当たり前のように、削って磨いて出荷をしていますけど、自分が手がけた商品が日本や世界の各地に届いて、誰かのもとで使われている。改めて考えるとそれってすごく嬉しく思う一方、『江戸切子』を作る一員としての責任感もあって、とても不思議な感覚です」
堀口切子では、江戸切子を使ったジュエリーの制作も行っているという。伝統工芸でありながらも、新しいスタイルなどに挑戦し、日々作品も進化しているようだ。 「江戸切子の190年という歴史のなかで、変わっていない部分というのが伝統の本質だと思うんです。ガラスを削って磨くことだったり、誰かの手に渡ったとき、見てもらったときに『うわ、これすごいね』『綺麗だね』って驚かせたり、感動させることだったり。それが江戸切子の本質なんだと思います。堀口切子はその本質をすごく大切にしていますし、しっかりと踏襲していると思います」 坂本さんは、江戸切子という技術に対して語りながらも、こう続けた。「いまこの瞬間、自分が江戸切子職人として活動できる期間のなかで、精一杯できることだったり、務めなければいけない役目を大事にしながら、新しい自分なりの作品を作っていきたいと思っています」 坂本さんは、2023年の『第35回江戸切子新作展』で東京都産業労働局長賞を受賞(「RINKA」)。2024年の『第36回江戸切子新作展』で江東区議会議長賞を受賞している。2024年の作品「心祈万海(しんきばんかい)」は、刀を模した作品を制作した。 「この作品は自分のなかでも、けっこう象徴的な出来事だったかなと思っていて。江戸切子新作展で出品されている作品は大皿や鉢、花瓶などの形状のものが多いのですが、なんか…目新しくてかっこいいものを作りたいなって思って」 筆者も「心祈万海(しんきばんかい)」を最初に見たときは、「これも江戸切子なのか」と驚いた。これこそ、先ほど坂本さんが語っていた、“本質を踏襲しつつ新しいものを生み出す”ということなのではないだろうか。 「これからはいままでやってきていることを大事にしながらも、誰も見たことのないような作品だったり、人を驚かせて『すごい!』と感動してもらえるようなものを作っていきたいです」 ![]() 「心祈万海(しんきばんかい)」 伝統的なものは、どうしても“変えてはいけない”という思いにとらわれがちだ。もちろん、変わらないからこそかっこよく、そこに愛が込められているという部分もある。だが、存在を残していくためには、次の世代が柔軟に新しいかたちへと変えながらも受け継いでいくこともまた、大切なことなのではないだろうか。 坂本さんの「本質を踏襲しながら新しいものを作る」という思いは、江戸切子に限らずすべての歴史、伝統、文化において言えることなのかもしれない。そのためには、まず本質とはなんなのかを見極めることが必要となる。 自分がいま触れている文化、日々行っている仕事、人とのつながりの“本質”はなんなのか。そのうえで、自分はどう行動していくべきなのか。今回は、江戸切子職人・坂本さんから大事な考え方を教わったような気がした。 |
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- 2025.05.20
- 10:18
職人の世界に飛び込んだ人たち一覧
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職人になるとはどういうことなのか?? 未知の世界、だからこそ興味がある。 ここでは当店で商品・作品のお取り扱いの有無に関わらず、取材を通して、魅力ある職人さんの職人になった経緯やその前後にあるストーリー、仕事の魅力や苦労をお伝えしたいと思います。 良いことばかりではなく、大変なことや想像を超えるような苦労もあるはずです。それを様々な角度からお伝えします。綺麗事ではなくリアルな「職人になる」ということを伝えたいと思ってます。 ありのままをお伝えして、感じるる魅力は必ずあり、そこに本当の魅力があるはず。 この紹介を見て「職人目指してみよう」と考える方が増えれば何よりです。 |
時間を超えて側にいてくれる“指物”の世界とは。指物師・益田大祐氏が語る職人の魅力と覚悟
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金釘を使わずに、木と木の組み合わせだけで家具や調度品を作り上げる技術“指物”。指物には1000年以上の歴史があると言われており、日本を代表する伝統工芸のひとつだ。 今回は、墨田区で『指物益田』を構える指物師・益田大祐氏をインタビュー。指物師を目指したきっかけや、職人という世界のリアルについて語ってもらった。
指物が何度も蘇るワケ
安価で組み立ても簡単な家具やインテリアブランドが増え続けている現代で、指物を所有している人はどのくらいいるのだろうか。指物師である益田大祐さんに、指物とはそもそもどういった技術なのかについて教えてもらった。 「指物とは、金釘を使わずに作る家具屋調度品のことを言います。穴を掘って、“オス”と“メス”を作って、組み合わせる。いまは“膠(にかわ)”や木工ボンドなども使うのですが、昔はご飯粒を潰してノリ代わりにする“続飯(そくい)”という方法もありました」 「指物は、修理をして何年も使い続けられることを前提としています。だから、使う接着剤もお湯で洗って取れる程度のものしか使いません。組み合わせを作って嵌めて、弱めの接着剤を使って締める。水分を含むと木が膨らむ原理も利用して、強度を高めます」 最終的に指物は、木の組み合わせだけで成り立つということだ。実際に益田さんに見せてもらった組み合わせは、少しの隙間もなくぴったりと“オス”と“メス”が密着して、ひとつのかたちになった。
「指物はなんというか、数学的なんですよね。組み合わせる基本の型があって、作るものに合わせて応用して型を変えていくんです。必要であれば、複雑化させる。組み合わせる部分の表面積を増やすほど頑丈になります。でも木を削れば削るほど木の強度は落ちるので、そこはバランスを取る必要があります」 組み合わせの型は“仕口(しくち)”といい、木の体積も考えながら設計をする。大きな作品になればそれだけ複雑になるということだ。正確に彫ったり削ったりするだけでも驚きだったが、改めて指物の難しさと技の凄さを感じる。
益田さんは、普段の依頼を振り返ってこう語った。 「1度作ったら何十年も使うことができるので、江戸時代に作られた指物の修理依頼なんかもよく来ます。あとは祖父の代から使っている鏡台を直して欲しい、といった依頼なども来たりしますね。ちゃんとした技術で作られているものであれば、長い年月が経っていても新品同様に直すことができるんですよ」 江戸時代のものを、令和に修理することが可能なのが驚きだ。指物の技術は、指物師がいる限り、想像しているもっと先の未来までつなげることができるのだろう。
1000年以上の歴史があると言われている指物。益田さんに、その始まりについて教えてもらった。 「指物の源流は京都になります。いまのように実用的なものというよりかは、自身の権力や身分を示すものを作ることが多かったようです。刀置きとか、嫁入り道具とかですね。それから江戸時代になり、商人が権力を持つようになってから、徐々に指物で商売道具も作るようになり、指物はより民衆的な文化になりました。地方では土地に余裕があるので大きな箪笥が作られたり、狭くて火事が起きやすい江戸では、小ぶりでコンパクトなものが作られたり、同じ指物でも地域によっても違いが出てきたのもこのくらいからですね」 薬の行商人なども、指物を使っていたようだ。指物でできた薬箱を組み立て、売り物を詰め、背中に背負い、「エッホ、エッホ」と運ぶ当時の商人の姿が目に浮かぶ。指物の歴史は、その土地で暮らす人たちの生活が透けて見えるようでとても面白い。そのくらい、指物は人々の生活に根付いた技術なのだろう。
「道具も発達し、扱える材料も増えてきたので、職人同士も技術を競い合うようになり、指物はどんどん進化していきました。また、歌舞伎が流行したのも江戸時代です。小道具や鏡台が必要になるので、さらに指物の需要も高まりました。雅(みやび)なものを作るところから、街に暮らす人が使うものを作る技術へと、立ち位置が変わっていったんです」 昔は、職人と依頼主のあいだに”問屋”という存在があったという。いまのように、職人が直接お客さんと関わるというわけではなかったようだ。 「問屋は、いまでいう仲介業者のようなものですね。太い問屋についた職人はそれだけでもう忙しく、ほかから注文を受けるのも難しいから、歌舞伎専門、お茶道具専門など、自ずと自分の得意な分野に特化していったんです。でもいまはそれだけだと食べていけないので、何個か分野を担当しています。うちも歌舞伎関係、茶道具、香道具など幅広く制作しています」
デザインの面白さを求めて
そもそもなぜ、益田さんは指物師になったのだろうか。そのきっかけについて聞いた。 「私は最初、高等専門学校の工業デザイン課に通っていました。学生時代からなんとなく『デザイナーになりたい』と思っていて。その後、家具の製造会社に入社したのですが、ちょうどバブル崩壊のときだったんです」 「もうそんな時代のデザイン部なんて、1番人員を必要としていないじゃないですか(笑)。自分がそこにいる意味がわからなくなっていた時期というのもあり、じゃあ自分で技術を身につけてデザインができるようになればいいと思ったんです」 軽快に笑う益田さん。世のなかの景気に追い詰められるわけではなく、そこから柔軟に進路を選んでいった姿に、職人としての根幹を感じる。 益田さんが指物師になったのは、世のなかの流れだけではなかったようだ。 「現場を見ると大量生産をするために工作機械を使っていて、本当に自分の手で技術を身につけているのは年配の方たちだけ。だから、機械を使って作れるものに限界があるんじゃないかと思ったんです。もしそうなら、デザインって面白くないかもと感じました。まだ就職して1年目だったんですけどね(笑)。技術を習得しているのもこの年配の方たちが最後の世代かもしれない、ということもうっすらと感じていて」 「職人になったのも、『伝統工芸を守りたい』というよりかは、自分のデザインの幅を広げるというのが大きな理由でした。あとは、現状をどうにかしたかったタイミングというのもあります。ちょうどそのとき雑誌に親方が載っていて、お話をお伺いしに行きました」 職人の道を選ぶとなると、かなりの覚悟と決断があるというイメージがあったが、益田さんの選択は想像以上に軽やかで、職人という世界を“そんなに怖がらなくていいよ”と背中を押してくれるようなものだった。
そんな益田さんが門を叩いた職人の世界は、どんなところだったのだろうか。 「私が弟子入りしたのは、お父さんと息子さんがやっているところでした。息子さんが私に仕事を教えてくれたので、側から見ると兄弟子が親方という感じでしたね。お父さんは温厚で物静かな方でした。息子さんはザ・下町のお兄ちゃんという感じです。三社祭が近くなるといなくなるような(笑)。組合には私のほかに7人ほどお弟子さんがいたのですが、みんな辞めてしまいましたね」 益田さんは、当時についてゆっくりと振り返った。 「そうですね……30歳前後になると、『これで食っていけるのか』とやはり現実的に考え始めるんです。家具屋さんに就職したり、教員免許を持っている人は教師になったり、それぞれの道に進んでいきました。やっぱりその年代って、普通に働いている同級生はそれなりに年次を重ねて、しっかりとした生活を送り始める歳でもあります。今後の人生設計を考え、続けるのは難しいと判断する人が多かったのかもしれないですね」 職人の世界は、飛び込むだけが決断ではない。挑戦したその先に、改めて『自分の人生はこれでいいのか』という自分自身との戦いや葛藤が待っている。 「京都などでは会社として指物師が働いているところもあるし、親方さんのもとに職人さんが5、6人いるっていうのが当たり前なのですが、東京は場所が狭いこともあって大きくやるのがなかなか難しいのもあるのかもしれません」
そんな人生の壁を、益田さんはどうやって乗り越えたのだろうか。当時のリアルな暮らしぶりについても教えてもらった。 「実家が都内だったので、最低限の暮らしは確保できていたんです。それでも同世代の一般的な給料よりかは安かったので、土日は学生時代にアルバイトしていたラーメン屋さんにお世話になったりもしていました」 そんな修行時代を乗り越え、益田さんは30歳のときに独立を果たしたという。改めて修行時代を振り返って、1番苦労したことについても聞いてみた。 「道具ですね。どんな仕事もそうだと思うんですけど、自分が思った通りに道具を扱えるようになるまでが難しかったです。それに指物師が扱うのは刃物なので、毎日何十回も研がなければいけません。若いときはそればっかりに時間が取られてしまって、「仕事しろよ」となっていました(笑)。刃物も人が打って作ったものなので、調子も一定というわけではなく、いいときと悪いときがあるんです。そういうときにどうするのかという、道具との付き合い方がわかるようになるのも時間がかかりましたね」
どんな仕事でもそうだろう。筆者もいまでこそMacBookを平気な顔をして使っているが、スムーズに仕事を進められるようになるまでに、拡張機能やらショートカットキーを覚えなければいけなかった。 「あとは材料の見極めですね。指物は天然木を使っています。現在は人工的に圧力をかけて、木の水分を抜いて乾燥させる技術もありますが、指物に使う材料でそれをしてしまうと割れたりしてしまうので、銘木屋さんでは乾燥させるために何十年もかけて、ときには店主さんのさらに上の世代のときから置いてあったりします。指物では、そうして自然の力で乾燥させた天然木を使うんです」 筆者が今回の取材でもっとも驚いたのが、この話だ。何十年もかけて乾燥させた貴重な木材なんて絶対に失敗が許されない。少し想像しただけで緊張で動悸が激しくなるようだった。 「購入するときは、必要な厚さの1.5倍ほどの厚さに製材します。なぜかというと、いままで空気に触れていなかった部分が露出すると、木が動くからなんです」 木が“動く”? まるで動物の話をしているようだと感じた。どういうことなのか、初心者の筆者に向けて、益田さんは丁寧に説明してくれた。 「かたちが捻れたりして、変化するんです。だから、工房に持って帰ってきて重しを乗せて、目的の厚さになるまで1年ほど平積みをすることもあります」 ここでまた衝撃を受ける。購入してからさらに1年ものあいだ工房に置くとは。指物のスケール感にふたたび圧倒された。 「一気に削って薄くすると、また木が動いて狂ってしまうので、1か月で1ミリくらいの間隔でだんだんと薄くしていくんです」
1か月で1ミリ。こんな世界があったとは。そんな工程を経て生まれた指物は、自分が想像している以上に職人さんがかけた時間や愛情、こだわりが詰まっていることを知った。 「そこが指物に魅了されたひとつでもあるんですけどね。木によっては、育ってきた環境で癖があります。たとえば山の斜面で育った木は、自分の重さに耐えるように育っています。そういった木を伐採すると、もう負荷がないのに何年も反発するようにしなるんです。そういう木はベッドの板に使ったり、木それぞれの特性も考えながら作っていますね」 なんだか人間の話をしているみたいだ。私たちと同じように、木にも生い立ちや性格がある。きっと指物師にはわかるのだろう。この子たちがどんな人生を歩んできたのか。
作るだけが職人ではない
益田さんに、改めて職人に必要な要素とは何かを聞いた。「そうですね……。人と話すのが苦手で、ものを作っている方が向いているという理由で職人を目指す方がよくいるんです。でもそれでは職人になるのは無理ですね」筆者も職人に対して、寡黙に手を動かす印象を持っていた。 「それは昔の話で。それこそ問屋さんがあったから、職人は仕事場にいて発注を受けたらよかったのですが、いまはその問屋さんもないし、黙って作っていれば売れるという時代でもありません。材料の値段もあってないものなので、交渉も必要になります」 職人と依頼主をつなぐ問屋という存在。それがなくなったいま、どうやら現代の職人は作る以外の部分も担う必要があるようだ。 「売り場も減ってきていますからね。少し前までは百貨店の催事売り場などで販売することもあったのですが、いまは物産展など食品の勢いがすごいので。そうしてコツコツ真面目に技術を身につければ食べていける保証はない。だからこそ、じゃあどうするのかを考える力が必要になると思います。その先を考えないといけない時代ですよね」 「まあ、自分たちもこの先どうなるかわからないので(笑)。だからこそ、若い世代には+αでほかの技術を習得して掛け合わせたり、職人という固定概念にとらわれずに、幅広い目線でものづくりを考えていくことも大事なのかなと思います」昔のやり方や技術を受け継ぐことはもちろん大事なことだ。だが、現実問題それだけで生活が成り立つ時代ではなくなってきていることを、益田さんの話から感じた。 だが、いまの時代だからこそ使える技術や需要が生まれたのも事実だろう。実際に益田さんが新たに取り組んでいる事例について教えてもらった。 「スーツケース茶室『ZEN-An禅庵』というプロジェクトに、指物師として参加しました。日本でも茶室を作る人は少なくなっていて、海外の販路を開拓する狙いもあって、スーツケースに入る茶室というのを制作しました。お線香が消える15分間で組み立てることができるという、少しパフォーマンス的な部分も含めて発表させていただいたんです」 [動画]世界中どこでも持ち運びできる茶室!スーツケース茶室「ZEN-An禅庵」 「そのスーツケース茶室も、結果海外からの反響が多く、販売もほぼ海外の方です。お客さんもそうですが、職人側でもいまは海外の勢いがすごいですね。弟子入り志願やインターンも外国の方がほとんどです。このあいだも、ドイツの大学で木工を学んでいる方が、日本の指物を教えて欲しいとインターン志望でいらっしゃいました」 インバウンドで外国からの観光客や労働者が増えていることは知っていたが、まさか職人を目指す外国人も増えているとは。日本の文化も、時代とともに変化の波が訪れている。 そして益田さんは、職人の動きが時代によって変化したことについてこう振り返った。 「私は作る技術ももちろん大事なのですが、人と人とのつながりも同じくらい大事だなと思っています。問屋という存在がなくなって、お客さんと直接お話しする機会もかなり増えました。たとえば歌舞伎の業界の方なんかはお忙しいので、ネットで調べるより口コミでお仕事をいただくことも多いんですよ。ネットは情報がありすぎるので、どこに頼むべきなのか逆にわからない。だから、特殊な分野の方ほど口コミで決める傾向が強いんです。そういう意味では、時代に逆行している部分もあるかもしれません(笑)」 インターネットが定着したからこそ、強くなる“口コミ”の力。一見便利な世のなかになったようにも感じたが、同時に情報の取捨選択に労力を割かなくてはいけなくなったのも事実だ。そして、機械ではなく、職人の手や血が通った指物の魅力は人を介して知る方が、魅力や価値が伝わるような気もした。 「非効率と言えば非効率ですけれど、でもそうやって長く付き合いが続くことはいいことですし、指物は1度買えば終わりというわけではないので。そういった先の時代に続いていくつながりも、指物に求められているところなのかなと思っています」
修理ができることを前提として作られた“指物”という存在。ただ長く使い続けることができるだけではなく、多くの人の手に触れられてきた歴史や時間の積み重ね、使う人と一緒に同じだけの時間を過ごしてきた木の人生を感じることができる。 指物は、場所を変え時間を超え、ずっととなりにいてくれる存在だ。流行や時代が目まぐるしく変わる現代だからこそ、人生をともにする安心感を与えてくれるだろう。指物師がいる限り、指物は生き続けられる。そんな人とモノの枠を超えた、不思議なつながりを教えてくれた。 |
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- 2025.05.20
- 10:25

















