ブランド紹介
000 / トリプルオゥ

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他に類を見ない糸のみでできたアクセサリーは、「素材」「職人の技術」「デザイン」にこだわり、群馬県桐生市にある創業1877年(明治10)の老舗の刺繍メーカー「笠盛」で製作されています。 |
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グラスコード
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CHOPLATE

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大手メーカーの自動車や家電などの精密部品を数多く製造してきた、大阪のプラスチック成型加工メーカー 株式会社河辺商会。CHOPLATEは創業66年目を迎える河辺商会に蓄積されたノウハウを活かし実現しました。 |
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CHOPLATE
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CHOPLATE KNIFE
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米沢緞通

![]() ![]() ※ページ下部へ進みます。 |
米沢緞通は米沢藩時代から絹織物の産地として有名な山形県の南、米沢市にある緞通工房。現在では絨毯のメンテナンス・クリーニング業と手織絨毯業を営んでいます。 米沢緞通を世の中に伝えるべく、日々丁寧にものづくりに向き合っています。「佇まいが心地良い」緞通を目指して。 |

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山形県の南に位置する米沢市は、米沢藩の時代から絹織物の産地として有名な地域です。 今回はこちらで手織絨毯を作り続ける米沢緞通・滝沢工房さんにお邪魔しました。 ![]() 案内してくれたのは、工房の代表である滝沢さんご夫婦と社員の松本さん。 米沢緞通の歴史や商品、ものづくりに対する思いについて色々とお話を伺うことができました。 そもそも緞通とは? 皆さんは緞通というものをご存知でしょうか。 あまり聞きなれない方もいるかもしれませんが、中国で発祥した高密度の手織りの絨毯のことです。 ![]() 緞通は、地糸にウールなどの毛を一目ずつ結び植えたのちに、包丁や鋏などで表面の毛を切って立毛させて作るという、非常に時間と手間のかかる工程で作られています。 強く打ち込みながら織っていくため、重厚感があり美しいだけでなく、毛が抜けづらいという特徴もあります。 ![]() 高密度に作られた緞通はとても丈夫で、裏地や接着剤を付ける必要がないので、通気性がよく一年中快適に使うことができます。寿命も長く、何十年も使い続けることができる緞通は、まさに一生ものです。 たくさんの人に知ってもらうために 時間と手間のかかる工程で作られた緞通は、一般的にとても高価なものなのですが、滝沢工房さんでは手に取りやすい価格の商品も販売しています。 「小さいものでも織りの工程に丸4日、鋏入れの工程に丸1日はかかるので、本来もっと高い値段で販売しないといけないのですが、米沢緞通の名前を広めたいという思いで、宣伝費だと思ってなんとかやってます」と話す滝沢さん。 ![]() 高くても良い物だと分かってくれる人に売りたい。 しかしたくさんの人に知って欲しいし使ってもらいたい。 そんな思いで設定した価格ですが、価値のわかる人からは原価計算が合わないということで「本当に日本製なの?」と疑われてしまうこともあったそうです。価格設定が難しいところだと話していました。 裏側まで美しい、日本に3社だけの製法 緞通の定義や捉え方については様々あるそうですが、大きく分けると2種類あります。 一つは「フック緞通」と呼ばれるもので、電動のフックガンを使って一針一針打ちつけて作られます。 一方、米沢緞通では、手作業で縦糸にウールのパイル糸をからめ、横糸とからみ糸で織り上げて作られています。 これらは模様が出る密度があまり変わらないため、表から見ると素人では違いがなかなか分かりません。 しかし裏側を見ると違いは歴然です。 ![]() いわゆる「フック緞通」の製品は裏側に布が貼られていますが、米沢緞通は裏側に布がなく、表と同じように美しい模様が表れているのが特徴です。通気性が高く蒸れにくいためカビにもなりにくいのだそう。単に美しいというだけでなく、一年中快適に使用できる実用性の高さが嬉しいですね。 ![]() しかし手間や時間、高度な技術を要するため、この方法で緞通を作っているのは滝沢工房さんを含む3社しかないそうです。 中国から伝来した技法 緞通というのは昔からの技法なのでしょうか。歴史についても教えていただきました。 日本に緞通が伝来したのは江戸時代。中国人の技術者が佐賀で広めた鍋島緞通が始まりだと言われています。鍋島緞通ではウールではなく綿を使用していたそうなのですが、天皇家との繋がりもあり格が高いものとして扱われていました。その後大阪の堺を中心に徐々に広まっていたそうです。 そんな緞通の技術が山形に広まったのは昭和の初期のこと。 当時山形県では町おこしとして、女性の就労のために中国緞通が導入されました。 その技術が各所に散っていく中で、長井市で発展したのが始まりなんだそう。 滝沢工房の始まり 「滝沢工房は、1966年に父が開発した織り機が特許を取ったところから始まりました。 父はもともと米織の織り機のメンテナンスをしていた人なので、機械には強かったんです。」 手織の良さと効率の良さを兼ね備えた特殊な機械で作られる滝沢工房の緞通は、技術的に真似ができない特別なものとして高い評価を得ることになりました。 ![]() 技術や品質が認められ、たくさんの注文が入るようになった滝沢工房さんですが、常に順調というわけではなかったそうです。 中曽根内閣時代には、国鉄の民営化に国家予算を割くことが決定し、その影響で建設業界の予算が減らされるという事態が起こりました。当時滝沢工房さんではビル全体に敷く緞通という大規模な注文をたくさんもらっていたそうですが、なんとそれらの受注が全部なくなってしまったというのです。 クリーニングのプロとして 技術が評価され、軌道に乗ってきた矢先の受注ストップ。 この危機を滝沢工房さんはどのようにして乗り越えたのでしょうか。 「実はビルに敷く緞通の注文をキャンセルした会社から、クリーニングの注文がたくさん舞い込んだんです。高級な絨毯のクリーニングは滝沢にしかできない、と思っていただけたみたいで、こちらから営業をかけなくても仕事はたくさんありました」と話す滝沢さん。 製造の工程での「洗い」の技術の高さが広く知れらていたため、クリーニングの分野でも信頼を勝ち取ることができたというわけですね。クリーニングの高い技術はその後も評価され、大手のクリーニング会社さんにも技術提供をしているそうです。 (もちろん当店でご紹する米沢緞通ブランドの商品も汚れてくればクリーニングできます。長く使う品なのでメンテナンスが製造元でできるのはとても安心ですね) 米沢緞通というブランド クリーニングがメインとなっていた時期にも緞通づくりは続いていたようですが、米沢緞通のブランド化のきっかけとなったのは2017年、「ててて協同組合」(作り手、使い手、伝え手が協力し合ってものづくりをを行う組合)の永田宙郷さんとの出会いだそうです。 それまで山形緞通として織物業を営んでいた滝沢工房さんですが、この出会いをきっかけに米沢緞通としての歴史が始まったのです。 ![]() ものづくりの支援センターがあると聞いた滝沢さんは、知り合いの方から永田さんを紹介してもらいます。 永田さんはものづくりの発想から販売方法まで、様々なブランディングを提案しました。 この時作られた工房のロゴやパンフレットには山形県内のデザイナーである吉田勝信さんのデザインが採用されています。こんなところからも個性や背景を大切にした温かいブランディングが感じられますね。 ブランディング後にも続く交流 提案してもらったことに真面目に取り組む滝沢工房さんと、それに対して懸命に向き合う永田さん。 交流は今でも変わらず続いているそうです。 「永田先生はいつも忙しく日本中を飛び回っている方なんですが、秋田に用事がある時にうちに寄っていくだとか、『調子どうですかー?』なんて言って一緒にご飯を食べてくだとか、そんな距離感なんです。今も一緒に色々考えていますよ。人気商品のウールブラシも先生に指導してもらったものなんです」とのこと。良好な関係性が窺えますね。 ![]() 特許取得の織り機 次に工房に移動して実際に機械を扱う様子を見せていただきました。 「強い打ち込みをするために鉄製のおさを使用しています。目が詰まってしっかりした仕上がりになるんですね。編み物というよりも組み物に近いかも知れません」 ![]() こちらは松本さん。他県の美大で織物を学び、就職活動をきっかけに地元米沢で作られている緞通の魅力を知り、就職を決めたそうです。 ![]() 「このグラフを見ながら作っているんです。設計図を見て、色を変えるときには横糸を変えていきます。色の多い部分は都度糸を変えていくので特に時間がかかります」 鋏入れで際立つ表情 織り上げた後は鋏でカットし、柄が立体的に見えるように整えていきます。 「目で見た感覚だけで鋏を入れていきます。鋏入れが甘いと、使っているうちに溝が埋まってしまうこともある為、深めに鋏を入れています」と話す社長の滝沢さん。 仕事の話をする姿は活気と自信に満ちていました。 ![]() 「この石楠花では花びらの重なりを考えて鋏を入れています。柄の部分に少しずつ凹凸が出てくるのが面白いんです。輪郭がパキッとしてくると自分でやってても楽しくなります」 時間のかかる作業は集中力も必要で、だんだん目が疲れてくるそうですが、一生懸向きあった分、認めてもらえたり、出来上がったものを見て手がこんでいるということがわかる人が購入してくれるのが嬉しいと、楽しそうに話してくれました。 鋏と技術の継承 現在この作業ができるのは社長の滝沢さんだけ、とのことで、今後どの様に技術を伝えていくのかということについても聞いてみました。 「もう少し経ったら教えようかなとは思ってますが、まずは鋏を研ぐところから教えないと。鋏が綺麗に切れない状態だと柄がちゃんと出ないんです。」そう話す滝沢さんの手元にある鋏を見ると、かなり年季が入っていることが分かります。 ![]() 「粗取り用とか、仕上げ用とか、種類は様々ですが、これらは20~30年くらい前に山形で作られた鋏なんです。剃り方や鋼の入れ方が特殊で、刀みたいでしょう。手作りで作られているもので、何年か前に新潟の三条へ行って同じ様な鋏を作れないか相談したことがあるんですが、これは作れないと断られてしまいました。」 今は振動で切るタイプの電動鋏もありますが、細かい部分には不向きだと言います。 繊細な動きをするにはこの鋏に限ると話す様子からは、道具へのこだわりが感じられました。 豊富なデザイン 社長の滝沢さんは、柄を考えるところから作るのが好きで、特に花などの自然のものをよく取り入れるのだそう。定番の柄も作りつつ、好みや流行に合わせて様々なものを生み出します。 百貨店の山形展や東北展では年配の方から特に反響がある花のデザインのものを作ったり、若い世代に好まれるモダンな柄には作家さんやデザイナーさんの手も借りるそうです。 ![]() 実際に飛んできたモモンガから発想を得て作成されたというデザイン。地元に住むデザイナーさんならではの柄、というわけなんですね。 米沢の技術と人 工房や商品を見せていただき、米沢で作られる商品の質の高さやこだわりに触れたところで、改めて米沢のものづくりについて聞いてみました。 「米沢の人は先走ったことは言わないんです。律儀で、仕事してますと言わない気質があって、なんだか勿体無いくらい。控えめなのか宣伝の仕方が分からないのか」と語る滝沢さん。 ![]() 実際にいいものを作っている人は大勢いるのに、評価されても自慢しないのが米沢流。 首相官邸や閣議室の絨毯、皇室の方が身に纏うローブなど、米沢で作られているものがたくさんあるのですが、必要以上に情報を外に漏らさない暗黙のルールのようなものがあるのかも知れません。 律儀で実直、そして無駄なことを言わない米沢の真面目な米沢の人たちだからこそ、高い技術と信頼を積み上げてきたのだと感じました。 滝沢工房のこれから 最後に今後の展開についてお聞きしました。 「売らなければ次世代が育たない。どうやってこの仕事を次世代に残していくかという課題については、海外進出も含め考えていかなければいけないですね」と話す社長の滝沢さん。 「実際に日本の段通は世界的に見てもとても高い品質のものです。その昔、アメリカからレーガン大統領が来日した際に、一番驚いたのがカーペットの質だと聞いたことがあります。日本の緞通の技術が世界に認められたというのはとても誇らしいです」 ![]() 取材を通して、滝沢工房さんのバランスの取れた姿というのも見えてきました。 たとえば世の中の動きを良く見て、緞通の製作とクリーニングのバランスを取ること。 その柔軟な姿勢で苦境を乗り越えてきたからこそ、今の滝沢工房があります。 作り出す商品についても同じです。 決まったものばかり作るのではなく、お客様の反応に目を向けて作家さんやデザイナーさんと組んで新しいものも作り出していく。幅広い世代に愛される理由がそこにはあります。 そしてなんといっても、滝沢工房を経営する皆さんのバランスです。 前に出るのが嫌いな根っからの技術屋である社長と積極的に前に出て人と交流をする専務。 「うちの社長は気難しく見えるけど仕事はきっちりやるんですよ。役割分担があるんです。私も本当は黙って何かに集中したいタイプなんだけど、社長が話さないから私が頑張ってるんですよ」終始笑顔で気さくに話す専務から、最後に意外なお話を聞くことができました。 滝沢工房の皆さん、本当にありがとうございました。 |
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KONBU

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1943年創業の繊維加工メーカー小松マテーレが立ち上げた加工技術を特徴としたブランドKONBU。世界中のファッションブランドやスポーツブランドが頼る加工技術をファクトリーブランドに詰め込みました。 軽く、丈夫なKONBUをさまざまな製品に活用し加工技術にさらに磨きをかけていきます。 |
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ジップトート
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プランターバッグ
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by koransha
現代のライフスタイルに寄り添う「日々の暮らしのうつわ」
佐賀県有田の地に日本初の磁器が誕生して400年。合名会社「香蘭社」を設立して140年余り。
伝統の技と美を継承し発展させてきた香蘭社から生まれた新ブランド「by koransha」は「現代のライフスタイルに寄り添い、“日々の生活”に楽しさと華やかさを与える暮らしのうつわのブランド」
香蘭社 取材記
日本有数の陶磁器の産地、佐賀県有田。
日本で初めて磁器を製造した有田の陶磁器は、その高い品質と美しい色絵によって、古くから国内外で愛されてきました。
その有田焼の中でも名窯として知られるのが、今回ご紹介する香蘭社。
創業はおよそ300年以上前の元禄時代。そして、日本が開国した明治時代には、世界各国の万国博覧会で数々の賞を受賞し、国内では宮内省御用達の品として重宝されてきたといいます。
そんな香蘭社が2021年からスタートした新ブランドが「by koransha」です。

「これが本当に有田焼?そもそも磁器なの?」と、驚いた方もいるのではないでしょうか。
一見すると、ティータイムに自然に馴染むシンプルなマグカップ。しかし、よく見ると有田焼を想起させる唐草文様があしらわれています。なにより目を引くのが、向こう側が透き通った美しい白。
洗練されたデザインを物に落とし込めるのは、香蘭社の技術があるからこそ。
ハレの日を彩る食器から、ライフスタイルに寄り添う食器へ。
今回の取材記では、有田焼の新しい価値を提案する香蘭社のものづくりを紹介します。
有田焼と香蘭社の歴史と特徴
有田焼の発祥は1616年。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に日本にやってきた陶工・李参平によって、磁器の原料である陶石の鉱床が発見されたことが始まりとされます。
良質かつ大量の陶石が採れるこの「泉山磁石場」は、その後数百年に渡って有田の磁器作りを支えることになりました。
また、良質な原料の産地であるだけでなく、有田の街は磁器作りに適した様々な要素が揃っていることが分かりました。
例えば、窯の燃料となる薪。陶磁器を作るための窯に使う薪には、高い火力が求められるため、樹脂が多い赤松が好まれます。当時の有田には、その赤松の豊富な自生地があったそうです。
それだけではなく、坂や川の多い有田の地形は、登り窯と呼ばれる斜面を活用した窯の建設や、水車を用いた臼による原料の加工工程にも最適だったと言います。
原料、燃料、地形。これらの相乗効果によって、有田は日本で初となる磁器の大量生産に成功し、現代まで受け継がれる一大産地となりました。
香蘭社のはじまり
元禄時代に有田で陶磁器製造を始めた深川家の祖・又四郎(初代深川栄左衛門)にルーツをもつ香蘭社。現在の形になったのは、明治維新の頃。八代目の深川栄左衛門が設立。様々な先進的な取り組みを行いました。
そのひとつが、通信網に用いる絶縁器具「碍子」の製造です。電信網の普及が急務であった当時の政府は、国産の碍子の開発を深川栄左衛門に依頼。この開発によって、通信網の発展に伴うニーズを掴むことに成功しました。
また、有田焼の更なる発展のため、万国博覧会への出品を計画。この出品の成功のために複数の窯元と共に設立された組織が合本組織香蘭社でした。
工業製品としての碍子の製造と、万国博覧会で数々の賞を受賞した美術品としての有田焼。
この両面の成功を実現した深川栄左衛門の先見の明によって、今の香蘭社が生まれました。
香蘭社の製造現場
ここからは、香蘭社の実際の製造現場を見せていただきました。

とても広い工場!香蘭社では、原料以外のほぼ全ての工程を自社でおこなっており、こちらの工場では約50名ほどの方が働いてらっしゃいます。
1階が磁器を成型する工場になっており、2階では絵付けを行っています。
まず初めに、1階で有田焼の作り方について教えていただきました。
効率とこだわりを両立した成型
有田焼の歴史でも見てきたように、磁器の原料は土ではなく陶石と呼ばれる石。現代では、熊本県の天草で取れた天草陶石を砕いた物を原料としています。

この原料そのものは、業者から仕入れているものですが、実はこの段階から香蘭社独自のこだわりが発揮されています。
「香蘭社では、業者から陶土の先行サンプルを受け取り、自社の研究室で工業製品レベルの成分分析をします。そうして確認した上で、問題が無かったものだけを入荷しています」
香蘭社では現在でも工業用の碍子を製造しているため、碍子の研究室があるとのこと。そうした工業製品のノウハウを応用し、磁器に用いる釉薬も原料にあったものを研究開発しています。こうしてこだわった原料によって製造の精度も増すため、薄い磁器を作ることもできるのだとか。
そうした厳選した原料を磁器の形に成型していきます。
「有田焼の成型方法は二種類。ひとつは土をろくろで回して整えるろくろ成型。もうひとつは土をどろどろにした泥漿(でいしょう)を石膏型に流し込む鋳込み成型です」

「これが焼き物の型になります。この型と同じものを何重にも積み上げて、穴の部分に泥を圧力で流し込んで成型します。圧力鋳込み製法という方法になります」

こちらが、圧力鋳込み製法でできあがったお皿です。
ろくろ製法では作れない複雑な形状のお皿を作れるのが、圧力鋳込み製法のメリットなんだとか。
また、泥漿を使った製法はもうひとつあります。それがこちら。
石膏型にたまった泥を、ポリバケツに捨てている・・・?。私たちがイメージする磁器作りとはちょっと違いますね。
「こちらは排泥鋳込みという製法です。石膏型に泥漿を流し込むと、石膏が泥漿の水分を吸収して、泥が外側から固くなっていくんです。外側がちょうどいい厚さになったら、残った泥漿を排泥します。排泥した泥漿は、ふるいで濾して再利用します。中が空洞になったものを作るのに向いた製法です」
こうして出来上がったものを、窯に入れて焼いていくと思いきや、ここから更に人の手を加えていきます。

ろくろの上で形を調整し、

水拭きという処理を施します。水を使って、表面を慣らすことで磁器らしい柔らかい曲線や触り心地を作っています。
香蘭社では、製造現場の各所に機械を導入していますが、こうした人の手による仕上げはまだまだ欠かせないのだそう。
「機械を導入してたくさん作ってると思われがちですが、意外と人の手がかかっています。機械化をすると、機械にできることとできないことが生まれます。そうすると、できないことを止めたくなるのですが、そこでしっかり人の手を使うことで品質、最後のこだわりのところで差別化できるのだと思います」
機械化の例では、先ほどの圧力鋳込みの型を作る工程があります。
圧力鋳込みで焼き物を作るには、焼き物の型もたくさん必要になります。香蘭社では、この「型を製造するための型」も自社製造しています。

この型を作るには、デザイン図面から焼き物の模型(原型と呼ばれます)を作る石膏職人の技術が必要不可欠でした。ところが、そうした職人さんは産地でも年々減少しており、香蘭社でも現在ではCADとNCスライス旋盤を使った製法に切り替えたそうです。
「職人の手で作っていた頃は、原型に微調整を加えようとすると再度作り直しが必要でした。CADの場合は図面のデータに調整を加えればいいので、デザインの試行錯誤に使う時間がずいぶん効率化されたんです」
機械による効率化と人にしかできない作業の両立。
こだわりを大切しながらも、多くの方に製品を届けるための工夫を感じます。
素焼きし、絵付けする工程
成型したばかりの生地は、とても脆い状態。水にも弱く、そのままでは絵を描いたり釉薬をかけることができません。
この状態から、まず900度ほどの窯で素焼きし、ビスケットほどの固さに仕上げた上で次の工程に入ります。

写真の手前の桶が釉薬で、その奥が水です。この釉薬に熱が加わることで、陶磁器のガラス質が形成されます。
この写真では、皿を手前の釉薬に浸したあと、水にくぐらせたあとで皿をくるりとひと回しする様子。
「釉薬をつけたあとに、滴る最後の一滴のところが分厚く固まってしまうんです。なので、釉薬が固まる前に水につけて散らすことによって、均一にムラなく塗ってるんです。」
1枚にかける時間はほんの5秒ほど。簡単そうに見えますが、この工程も熟練の技が必要なのだとか。
釉薬をかけたあと、いよいよ窯で焼き上げていきます。

こちらの工場には4機の窯があり、1300度の温度で焼き上げていきます。窯の外側でも、近づくと熱が感じられます。
焼き上がった磁器は、この段階で第一回目の検品が行われます。

「まず人の目で見て不良が無いかを確認して、それからひとつひとつ叩いて耳で確認します。ヒビが入っていると音が変わるのですぐに分かります」
実は窯の近くでは、焼き物を叩く「コンコン」という心地のよい音がずっと聞こえていました。その正体がこちらだったんですね。
こうした検査は工程のいたるところに織り込まれ、人の五感で行われています。
「焼き物の検査は、機械的なマルかバツじゃないんですよ。1回目の検査で感覚的におかしいと思ったものは、2回目3回目の検査でも違和感が生まれます。こうした感覚的な違和感に気づくことで、製品の品質が守られているんです」
2階の絵付室へ!
1階で焼き終えた磁器は、2階の絵付室で絵を施していきます。
有田焼では、素焼きの段階で絵付けを行う下絵付けと、本窯で焼いたあとに絵付けを行う上絵付けの2つの場合があります。今回は主に上絵付けの工程を見せていただきました。
まずは熟練の職人による手で施すもの。

ろくろを使ってひとつひとつに色を付けていきます。
「釉薬と同じで、簡単そうに見えますがとても真似できません」
とのお話。お話をしている間にもどんどん次の器を塗っていきます。
また、香蘭社では手描きの他にも次のような塗り方をしています。それがこちら。

無地の皿の上に、水に塗らしたイラストを転写しています。
「プリント紙といいまして、職人さんが手描きで使っているものとまったく同じ絵の具をシール状に印刷したものです。これを焼きつけると、余分なところが燃えて手で描いたものと同じ仕上がりになります」

型紙から外したあとは、ヘラや布などをいくつも使い分けてシワを伸ばしていきます。無地だった皿が、みるみるうちに絵付けされた鮮やかなお皿にhなっていきます。
香蘭社ではこうした転写紙も自社で生産しています。デザイナーの案をすぐに形にすることができるため、生産開発力にも直結しているのだそう。
こうして、絵付けが施された磁器は、800度ほどの窯で再度焼きつけられていきます。ものによっては、4度、5度と繰り返すことも珍しくないとのこと。
あの鮮やかな有田焼は、こうして幾度も人の手がかかっているんですね。
新ブランド by koranshaが始まった経緯
ここまで、香蘭社の歴史とその製造工程を見てきました。
焼き物作りに適した土地に芽吹いた文化を、時代の潮流に乗りながら技術を受け継いだものづくりをしてきた香蘭社。
2021年から新たに「by koransha」という新ブランドの展開が始まりました。

絢爛な和食器としての有田焼とは一線を画した洋食器のby
koransha。どういった経緯で生まれたのでしょうか。
発端は今から4年以上前。次の時代の香蘭社のあり方について社内で議論をはじめたとのこと。
そもそも香蘭社とはなんだろう。香蘭社のものづくりとはなんだろう。
議論を重ねて自社の強みを再度みつめなおし、形につくったブランドがby
koranshaでした。
「140年の歴史の中で、香蘭社のブランドはハレの日の和食器として、多くの方に愛されてきました。40代以上を中心にコアなファンの方がいる一方で、洋食器に親しんだ若い方の中には、香蘭社を知らない方が多いんですね。
by
koranshaでは、そうした若い方に香蘭社のものづくりに親しみを持ってもらうためのブランドになります。日々の生活の中で気に入っていただいて、いずれハレの日の和食器に興味を持っていただいたときに、香蘭社を選んでいただければと思っています」
長い歴史があるからこそ、発想の転換が大変だった、と語る専務。
普段使いの食器として、お客様のイメージやどうしたシチュエーションで使われるかについても、想像しながらデザイン・開発を進めたと言います。
そうした経緯で生まれたby koranshaには、有田焼の伝統的な技術と様々な新しい試みが詰め込まれています。

冒頭で紹介した透き通ったマグカップの「クロッシェ」。
磨り硝子のような透き通った質感で全面にあしらわれた草花の凹凸模様は、釉薬を銅板転写する新技術が用いられています。
こちらの、kogane/shiroganeにも新技法が取り入れられています。

金属製のタンブラーと見間違うようなテクスチャーは吹きつけによるもの。
昭和レトロを想起させる愛らしい絵柄は、新技法のレリーフ加工が採用されています。
ざらつきと光沢を両立した磁器とは思えない質感だけに、展示会などでも反響が大きいといいます。
「香蘭社ブランドではできなかった新しい技法に挑戦できるのはby koranshaだからこそです。それだけに生産も難しかったのですが、ようやく世の中に出すことができました」
伝統と挑戦を両立したby koransha。その中で意外なこともあったといいます。
「展示会に出したときに、バイヤーさんから製品の仕上げについてお褒めをいただくことが多かったです。縁の処理や釉薬の痕について、他社では見たことないくらい品質がいい、と。社内的には当たり前の部分でもあったので、弊社の技術水準の高さを再認識することになりました」

香蘭社と有田焼きの目指すもの

ライフスタイルの変化に加え、新型コロナの流行による観光客の減少や、磁器の名地・有田はいま、転機に立たされています。
「地方都市としての人口減少もある中で、有田焼の技術の担い手も減っています。弊社の工場を維持するためにはそれなりの人数が必要ですから、常に危機感を抱いています。新しい取り組みを模索しているのは、そうした経緯もあります」
もちろん、こうした危機感は香蘭社だけのものではありません。
有田では、香蘭社以外の窯元でも、既存の有田焼にとらわれない新しい商品が次々と誕生しているといいます。
そんな中、香蘭社と産地との関わり方はどう変わっていくのでしょうか。

「たとえば、弊社のショールームは文化財にも指定された歴史ある建物です。商品だけでは無く、歴史や文化も含めた弊社の強みを組み合わせて、県外の方にも有田焼の魅力をもっと伝えていきたいですね。そうして地域貢献できる状態までもっていくことが、会社としての使命だと考えています」
明治維新の激動を、追い風に変えて発展を遂げた香蘭社。
時代の変化を帆に受けて未来に向かう精神は、手作業と機械化を両立する製造現場や、新しいブランドへの向き合い方にも、受け継がれているように感じました。
by
koranshaという名前には、「日常によりそう」という意味が込められています。
有田焼の美しい食器とすごす日常に思いを馳せながら、お話をうかがわせていただきました。

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マグカップ クロッシェ
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タンブラー kogane/shirogane
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クロダ

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手袋の産地香川県東かがわ市に手袋製造業として創業。 40年以上続くクロダの伝統的なレザーグローブは、現代のライフスタイルを反映した機能性素材を使用。指先まで美しく見えるのはステッチまでデザインしています。 手を入れた感覚はどこまでもなめらかで包み込むような心地良さは、冬の外出を楽しくします。 |

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みなさん、日本の“手袋”の産地といえば、どこを思い浮かべますか? 一般的に手袋は、防寒目的として使われるアイテム。その特性から、日本列島の北側、寒さの厳しい地域を産地としてイメージされた方も多いのではないでしょうか。 実は、日本最大の「手袋の町」は、香川県の東かがわ市です。温暖な香川県が産地なのかと意外に思われるかもしれませんが、なんと全国生産の90%という圧倒的なシェアを誇ります。 なかでも今回は、レザーグローブを手掛けて40年以上の歴史を持つ「KURODA」にお邪魔しました。 お話をお伺いしたのは、代表取締役社長の棚次さん(右)と経営企画部部長の佐竹さん(左)です。 KURODAの手袋は、手を入れた瞬間、ほわっと優しく包み込まれるような心地よさがあります。 ![]() すっと伸びた美しい指先と、洗練されたデザインも魅力です。 ![]() 今回の取材では、香川で手袋産業が根付いた歴史から、海外工場の現状、日本のモノ作りの魅力まで、さまざまな話をお伺いしてきましたので、その熱量を少しでもみなさんにお届けできると嬉しいです。 手袋の産地・東かがわ市が誕生したきっかけ そもそも手袋産業が東かがわ市で盛んになったきっかけは、なんだったのでしょうか。その礎を築いたのが、両子舜礼(ふたごしゅんれい)と棚次辰吉(たなつぐたつきち)という二人の人物です。 はじまりは明治時代。東かがわ市でお坊さんをしていた舜礼は、とある女性と恋に落ち、駆け落ちして大阪に移り住みます。 そこで生計を立てるため着目したのが、メリヤス生地の製造でした。なかでも手袋の需要が高まっていくと見越した舜礼はその製造に乗り出し、彼の従弟であった辰吉など数名の若者を呼び寄せ、事業を拡大していきました。 ところが、舜礼は若くして病気で亡くなってしまいます。残された辰吉は地元の東かがわ市に帰郷。手袋作りを地場産業として根付かせていきました。 「もともとこのあたりは『塩』と『サトウキビ(和三盆)』と、農業くらいしか産業がなくて貧しかったんです。農業の合間にやる家内工業として、手袋作りが広まっていきました」と棚次さん。 一社員が、突然社長に 実はこの歴史ストーリーに出てくる「辰吉」が、棚次さんの曽祖父にあたります。 「小さい頃はイヤでしたね~(笑)。地元では曽祖父が有名なのでその子孫として『お前も手袋産業をやるだろう』って思われるし、昔は長時間労働のキツイ仕事というイメージがあったし。私自身、手袋関連の仕事に従事する気はなかったんですよ」と語る棚次さん。 学校卒業後は、手袋とまったく関係のない職業に就きました。しかし、地元で働きたいという想いが強くなり、縁があってKURODAに入社します。 「それから長年ずっと営業をやってきたんですけど、44歳のとき会長(当時の社長)にいきなり『4月から社長をしろ』と言われまして。もうイエスかノーですよ。ノーだったら辞めなきゃいけない(笑)」 偉大な曽祖父が理由だったわけではなく、棚次さん自身が長年働き続けた結果、社長というポジションにたどり着いた。当時の中小企業では、このようにまったく血縁関係のない一社員が代表権をとるのは珍しかったそうです。最初は就きたい仕事ではなかったかもしれないですが、棚次さんにとってこの仕事は天職だったといえるでしょうね。 「人がしないことをする」KURODAのモットー KURODAを一代で築き上げたのは、現在、会長を務める黒田さん。 棚次さんによると「会長は業界でも異端児というか…過去に例がないことをやる人だったんですよ。“人がしないことをする”という考え方を持っている人です」とのこと。 その言葉通り、KURODAは日本を飛び出して、海外に次々と工場を設立していきます。最初は、1986年に中国の上海に工場を作りました。今でこそ海外に工場を持つ日本企業は多いですが、当時としては非常に早い進出です。 ![]() 「10数名しかいない会社が上海に出るということ自体が異色で、当時はまわりから色々言われましたね。でも会長は20年、30年先を見越していたんです。まわりはみんな止めたけど、頑として譲りませんでした」 海外ならではの、苦労を乗り越えて 「それから3年くらいは非常に苦労しましたね」と、当時の中国工場について語る棚次さん。 日本の技術者を半年間ほど中国に送って、どんどん指導を行いました。そうして人を育てていくうちに品質レベルも驚くほど向上し、今では自社の海外生産の約8割を中国工場が占めるほどに。 ![]() 「日本の工場ではできないけど、中国ではできるということもあるんですよ。それくらい技術力は高いです」と佐竹さん。 続いて2011年には、インドに工場を作りました。当時は、日本企業も100社ほどしか進出していなかった時代です。 「まだジェトロ(日本貿易振興機構)の事務所ができていないときで。『手袋屋さんが何しにきたんよ?』と言われましたわ(笑)」と棚次さん。 そんななか、インドでは宗教の壁が立ちはだかります。イスラム教、ヒンドゥー教、キリスト教、仏教など、さまざまな宗教が混在するインドならではの問題です。 「宗教ごとにお祭りやフェスの習慣が全然違うんですよ。お祭りがあるたびに毎日どこかのラインの誰かが休むので、全員揃うことがまずありませんでした」 ![]() さらにインドでは建物を建てるのにも苦労したとか。 「工場の建物を建てるだけで、3年かかりましたからね。寮も建てたけど、インドの建築の基準法みたいなのに引っ掛かったんで全部潰すことになって、だいぶもめましたわ(笑)」 こうやってお話を聞くといろいろ苦労されたようですが…。 「でもまぁ、会社が伸びていくころやったんで、今ふり返るとおもしろいですよ。向こうに行って、片言の英語でケンカして帰ってくる(笑)。こんな経験、なかなかできないし」と笑って話してくれた棚次さん。 「海外に工場を作るのも、全部商社を挟んでいないんですよ。基本的に商社を使うのが嫌いなんで(笑)自分たちで乗り込んでいって、自分たちで交渉してやっていく。だから苦労もするんですけどね」 2017年には、ミャンマーに工場を作りました。ところが今度はクーデターが勃発。さらに昨年はコロナの影響もあって、ほぼ生産ができなかったそうです。 ![]() 「今は、ミャンマーから日本に研修生を呼んでいます。日本で技術を習得して1年経ったらミャンマーに戻り、工場のみんなに伝えていくというサイクルを作ってるところです。今後技術が伝播していって、国情もよくなるといいんですが…」と佐竹さん。 日本製ならではの、魅力とは? KURODAの海外生産は、ただ海外の工場に製造を委託しているのではなく、KURODAの技術をしっかり伝えた自社工場であることが特長です。 「同じ海外生産でも、うちの商品は品質的に国産と同じレベルのものが作れますので『KURODAの海外工場なら安心』と言われることも多いです」 技術的には海外生産も日本生産も差がなくなってきたKURODAですが、では逆に日本製ならではの魅力というのはどこにあるのでしょうか。 「海外の職人さんと日本の職人さんは、やっぱり育った環境なんかによって、ちょっとだけ視点が違うんですよ」と棚次さん。 「例えばゴルフの手袋を作る場合、『ゴルフをするときに使うんだから、こういうところをこういう風に注意した方がいい』という気配りや思いやりなんかは、やはり日本の職人さんのほうができたりするんです。特に日本の消費者の方の目線は厳しいので、職人さんも自然と工夫を凝らすようになります」 私も今までたくさんの作り手さんとお話をさせていただき、細部にこだわりがあったり、細かいところまで手を抜かなかったりする、日本のモノ作りのよさに触れてきました。 そこにはやはり「何を考え、想像しながら作ったか」「使い手にどこまで思いを馳せられたか」みたいなものが積み重なっているのかな、と。それが日本のモノ作りのクオリティの高さに繋がっているんだと思います。 KURODAの手袋が、目指すところ KURODAの手袋が一番追求しているのは、手を入れたときの「はき心地のよさ」です。カシミヤやボアといった裏地の気持ちよさはもちろんのこと、革自体にも独自の工夫を加えています。 「うちは輸入した革をすべて自社で計量器にかけ、柔らかく伸ばし、再加工して使っています。その一工程が他社との大きな違いです」と棚次さん。 「手袋の革は柔らかくフィットすることが大事なので、ほぐして繊維をゆる~くしてやらないといけない。そのためには、革を伸ばす工程がすごく大切なんです。これをやらないと手袋が途中でいびつな形になってしまう。まさに職人技の部分です」 長年レザービジネスに取り組み、革に関する知識や経験を積んできたKURODAだからこそできる技ですね。 すべて手作業で行われる、手袋の製造現場 ここからは実際に手袋を作る工場を見学させていただきました。 ![]() まずこちらは革を裁断する作業です。シワの入り具合や無駄のない取り方などを考えながら職人さんが金型を置き、上から機械でプレスしてカットします。 ![]() 革を事前にバランスよく伸ばしてから裁断することで、革が伸び過ぎるのを防ぎます。加減がとても難しい作業だそう。 ![]() こちらは手袋の親指を縫製しているところ。とても細かい作業なので、見ている方は思わず息を止めてしまいます。 ![]() こちらは服飾の専門学校を卒業した新人の職人さんですが、手際がよくてびっくり! 「手袋は手につけるものだから、細かいところまで目がいっちゃうので…服を縫うよりもめちゃくちゃ難しいです」 ![]() 指先の細かいところまで、一本一本丁寧に確認しながら縫製していきます。 ![]() ![]() ミャンマーからきた研修生のおふたり。2か月間日本語の勉強をしたあと、ここで縫製技術を磨いています。 ![]() ![]() こちらは、最後の仕上げの工程です。温めた金型を手袋に入れて、ひとつひとつ形を整えていきます。 ![]() 仕上がった手袋は、シワひとつなくピンとして、本当に美しいですね。 手袋といえばKURODA、となるように 最後に、今後の展開をどのように考えているかお伺いしました。 「最終的には『手袋=KURODA』まで持っていきたいんです」と語ってくれた棚次さん。そのため、今後は自社ブランドの販売に力を入れていくそうです。 「今までOEM(他社ブランドの製品を受託製造すること)で、有名ブランドの手袋は全部ぼくらが製造してきたんです。でもそれだと、物は作れるけど名前は出ていかない。世界的な革の展示会ではKURODAの名が知られてるんですけど、一般的にはまだまだ広まっていないので、まずは知名度をあげていきたいですね」 今回の取材で、私自身、海外生産というものの見え方が変わりました。海外製は品質が…と思う方もいらっしゃるかと思いますが、KURODAのように日本側がモノ作りの部分をしっかり管理することで国産製品と同じくらいのクオリティを維持することができるのですね。 また逆に、日本のモノ作りの魅力も再確認することができました。貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございました。 |
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BLANKED
BLANKED(ブランケッド)は、
綿繊業発祥の地「三河」で70年以上、生地づくりを行なってきた老舗メーカー
「ナカモリ」がつくる、ガーゼケットのブランドです。
ガーゼケットの土台となっているのは「三河木綿」。
室町時代から現代まで三河地域では、
精錬・染色・織・縫製、それぞれの職人が集まる繊維の町として、
織物を継承・探求し続けています。
BLANKED 取材記
ガーゼケットと聞くと、
どんなものをイメージするでしょう。
使い込んでもくたっとせず、
どんどんふっくらしていくブランケット。
長く使っていくうちに風合いがでて身体になじむガーゼケットが、愛知県蒲郡市にある有限会社ナカモリで企画・販売、中瀬織布合資会社にて製造されています。
2社の社長はいとこ同士なのだそう。
それぞれの役割を担い、2社で協力しながらガーゼ生地の商品を展開してこられました。

中瀬織布合資会社の代表取締役・中瀬孝充さん、有限会社ナカモリの中瀬綾乃さんと柳奈津江さんにお話を伺いました。
新ブランド「BLANKED」への想い
新しくスタートした「BLANKED」は、ガーゼケットのブランドです。
タオルケットを使っている人は多いけど、ガーゼケットという言葉は知らない人が多いのでは?
肌に優しく機能的な「ガーゼケットを広めたい」という想いでブランドが誕生したのだそうです。
BLANKEDのガーゼケットの特徴は「多重織」
「同時に重ねて織ることで空気の層ができ、通気性と保温性を兼ね備えるんです。
使っていくと良い風合いが出てきます。ふっくらして身体に馴染んでくるのが持ち味ですね。」と中瀬社長。

ガーゼと聞いて思い浮かべるのは、ベビー用品やキズの処置に使うものでしょうか。
ガーゼはキズを覆うものとあって肌に優しい生地。赤ちゃんにも安心して使えるもの。 それを寝装品に活かせないかということで、多重ガーゼケットの開発に至ったのだそうです。
天然素材を使って国産で作られるガーゼケットの品質を知ると、手放せない一枚になりそうですね。
繊維の町の技術と国産へのこだわり
中瀬織布合資会社と有限会社ナカモリがある愛知県蒲郡市は「三河木綿」で知られる繊維の町。
昭和10年〜30年代が織物のピークで、当時は1000軒もの機屋がありましたが、今では40軒ほどまでに減ったといいます。三河織物は今でも伝統産業として受け継がれ、昔ながらののこぎり屋根の機屋も僅かながら残っています。
中瀬織布では、初期の頃は平織りや綾織りで製造していましたが、織り機の進歩に沿ってジャガード織での製造を広げてきました。
ジャガード織とは、色や素材が異なる糸を組み合わせ、ジャガード専用の織り機に組織を読み込ませて作られる織物のこと。
柄が立体的に浮かび上がるのが特徴で、プリントされた生地と比べて高級感があります。
ジャガードのシーツやカーテン、テーブルクロスなどをメインにしていて、問屋から仕事を受注することが多かったのだそうです。
ガッチャンガッチャン…と音を鳴らせてゆっくり織る機械で生産していた時代から、スピードを上げて量産を可能とした高速織機を使う今まで海外生産に頼ることなく、国内生産で続けてこられました。

こちらが中瀬織布の工場。
織機のパーツが置かれているのを見ると、地場の空気を感じられます。
今では、天然素材を使用したガーゼ生地の製造がメインになりました。
伝統産業とはいえ、自分たち独自のやり方を見出してこられたお話を聞くと、さまざまな苦労を乗り越えてこられたことが伺えます。
日本での生産にこだわる理由
蒲郡市に最盛期には1000軒くらいあった機屋が減少した背景は、海外に製造が移行したことが大きかったのだそうです。
「ものすごいスピードで、あれよあれよという間に仕事がなくなりました」と中瀬社長。
それは15年くらい前の話。 地元の問屋も仕事を中国に移行するようになり、本当にやばい!と焦りを感じる状況に陥りました。 自分たちで柄をつくって、紡織をして、ナカモリの社長と一緒に展示会に出続けたのだそうです。
「工夫をして商品を作り、見てもらう」ことの繰り返し。熱意と根気を要する挑戦だと思います。
当時、中国の工場を尋ねてみたところ、価格も人件費も安くて驚いたといいます。 中国で生産しようとは考えなかったのか伺うと、
「多重織はどうしてもキズがつきやすく、当時の中国の設備では織れなかったのです。 日本でやってきた中でも、機械を最新のものに入れ替えながら、ガーゼに適した設定をみつけてきたのでね。日本で機械をこまめに管理しながらやっていくことが必要だと思いました」と中瀬社長。
当時は
今のようにWEB会議が簡単にできるわけではなかったので、海外生産では見えない部分が出てきてしまうのではないかという心配もあったのだそう。
やはり
日本で製造する方が不安が少なく、自信をもって製品を出せるのだと思います。
MADE IN JAPANのブランドの誠実さを感じます。丁寧なものづくりが続けられてきたというこだわりが見えますね。
自社の強みを活かすために
真似されないようなもの、自分のところでしか作れないようなものを製造したい!という想いで BtoC の事業をスタート。
まずはハンドメイド作家さんに向けてガーゼ生地を販売することからはじめ、前身となる「fuwara」というブランドを展開しました。
fuwaraの商品はギフトショーへの出展を重ねながら、販売先とのつながりを広げたのだそうです。

ギフトショーで出会う販売先は考え方が多様で、ものづくりへのこだわりに共感してもらえるお店ばかりではなかった分、どうしても安さを求められることがあったといいます。
「価格競争になったところで、どんどん価格を下げると頭打ちになるので、商品開発に力を入れています」と中瀬社長。
価格ではなく、独自の技術力と、それに合ったデザイン性のあるものを開発することで戦うことを選ばれたということですね。
そこで、もとは柄のデザインを外注していたのを、柄・織りの組織・企画を自社でつくれるよう内製化したのだそうです。
これにより試作や開発の費用を抑えることができ、より沢山の試作と開発に取り組み、高付加価値でありながら競争力をもった商品開発ができるようになりました。
BLANKEDのブランディング
良いものが作れても、その良さが伝われらなければ、過去に中国製が入ってきた時のようなことを繰り返してしまう。
これまでの経験から新たなブランドでは、
「こだわりがある商品を展開するお店に置いてほしいと思いました」
「今までに参加したことがなかったこだわりのあるお店のバイヤーが集う展示会への出展をきっかけに新しいブランドを作ったんです」
ナカモリの中瀬さんと柳さんが語ってくださいました。
そうして多重ガーゼの特徴と素晴らしさを伝えるブランド「BLANKED」がスタート。
「ブランケット/BLANKET」であるところを「ブランケッド/BLANKED」としているのは、「使い込んだ」という意味が込められています。長く使い込むごとに柔らかくなって
身体に馴染む 特別な一枚です。

初出展の展示会では、これまでに取引のなかった取引先との出会いが多くあったのだそう。
商品の価値を分かってもらえる取引先との出会いを通して、価値を丁寧に伝えるということを大切にしたブランディングに取り組まれています。
「これまでとは別の販路でも商品が展開され、新しい客層にも使ってもらえることに期待が高まりまっています」
国産・天然素材へのこだわり
時代に合わせていきながらも、国産で天然素材にこだわる商品づくり。 工場の様子を見せていただきました。
昔はガッチャンガッチャンと音をさせながらゆっくり織る機械を使っていましたが、今は「エアジェット」や「ウォータージェット」といった高速機を使って生地を織っています。
織り機15台をすべて高速機にしたことで、短納期への対応も可能になったのだそうです。
これがエアジェットの機械。

色鮮かな糸が高速で織られていく様子は、なかなか見られない光景です。
高速機では、毎分1000回転で生地を織ることができるんだそう。
昔ながらの機械は、毎分100回転ほどだったため、10倍ものスピードです。
BLANKEDのガーゼケットは四重織。
4枚を同時に重ねて織られたガーゼケットの断面を見せてもらいました。

間に荒目の生地をいれることで、ふわっとした空気の層ができるといいます。

このガーゼケットが、使っていくごとにふっくらした良い風合いが出てきます。
汗をしっかり吸ってくれ、通気性も保温性も高いガーゼケットが、やわらかくなって身体に馴染み、特別な一枚になります。
キズがつかないよう管理されながら、同時に重ねて織られたガーゼケット。
優しいガーゼケットの製造工程にこだわりを感じます。
塗り終わった漆器を乾燥機で焼き付けをおこない、塗装を定着させます。
最後に、検品をおこなってクリアしたものを、次の工程へと引き継いでいきます。
贈り物に、親子で同じものを使う喜びに
ガーゼケットというと、出産祝いなどで耳にすることが多いものとあって、ベビー用のものからはじまりました。「子供が使うものには肌に優しい天然素材を選びたい」という親御さんが昔から多いこともいえるでしょう。
こうした背景があって、ガーゼケットはベビー用と大人用が展開されています。
「BLANKEDのガーゼケットは、親子で同じものを使えるんです」 意外とこういう商品展開って珍しく、親御さんも喜びを感じらます。
中瀬社長も、「大人の方が使っていただいても十分喜んでいただける商品です」とお話しされていました。

今後の展開について聞くと、ニーズに合った商品を作っていきたいとのこと。
国産のガーゼケットは、しばらく使ってみて「やっぱりいいな」と思えるもの。コロナが流行る前には、海外の展示会にも参加して来られた経緯もあるのだそうです。
原材料が高騰していて、良質なものを安く提供するといったことが厳しい状況ですが、今できることに挑戦し、試行錯誤を重ねてこられました。
最近では、ガーゼケットの商品は三河で製造し、やわらかく加工する工程を愛媛県今治市でお願いするといった産地間コラボもされているんだそうです。
「地元だけでの商売では難しい時代になっているからこそ、産地間交流をしながら盛り上げていきたいですね」と中瀬社長。
ものづくりの産地同士での交流があるということを新鮮に感じました。 こだわりをもつ生産者同士が協力することで、更に良いものが作られるのだと思います。
なかなか聞くことができない貴重なお話を聞かせていただきました。長時間取材にご協力いただきありがとうございました!
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ガーゼケット -BLANKED-
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オークヴィレッジ


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岐阜県の北部に位置する飛騨高山は、90%以上の林野率(土地の総面積に対する林野面積の割合)を誇る、自然資源が豊かな地域です。 今回は、そんな飛騨高山の里山に工房を構える「オークヴィレッジ」にお邪魔しました。敷地内は深い緑の森に囲まれ、清らかなせせらぎが流れ込み・・・まさに自然とともに歩む“理想郷”のような場所です。 お話をお伺いしたのは、営業の森下さん(左)と工場長の小木曽さん(右)です。 オークヴィレッジは、国産の木材を使用して家具や木工品といったものづくりに取り組む工房です。日本いいもの屋では、子どものおもちゃを中心に取り扱っています。 ![]() ![]() 今回の取材では、オークヴィレッジを立ち上げた経緯から、ものづくりに込められた想いまで、たっぷりお伺いしました。 創業者は、熱い想いを持った若者たち オークヴィレッジが飛騨高山の地に創業したのは、1974年。立ち上げたのは、東京から移住してきた5人の若者たちです。 彼らは、いわゆる団塊の世代。大学を卒業したあとは大手企業に就職するのが普通と考えられていた時代ですが、彼らはそれまでまったく関りのなかった木工の世界へ飛び込みます。 「創業者はみんな、“へそまがり”だったんでしょうね(笑)。時代に流された一般的な道ではなく、自分たちの『想い』が実現できる道を選んだんです」 ![]() 創業メンバー全員を突き動かした『想い』。それは、『自然との共生を目指し、循環型社会を作る』というものでした。 「同業の工房さんは『家具を作りたい』というところから始まっているんでしょうけど、私たちは違います。『循環型社会を作りたい』という創業者たちの想いが、ベースにあるんです」 サステナビリティが大きく叫ばれる現在では、「循環型社会」という言葉もよく聞くようになりました。しかし、オークヴィレッジが創業した当時は大量生産・大量消費がもてはやされた時代。地球環境を顧みる企業など、ほとんどありません。 そんななかでいち早く日本の森林資源に注目し、未来を見据えて動いた5人の若者たちは、まさに先見の明があったと言えるでしょう。映画や小説になりそうな、ドラマティックな創業秘話に驚きました。 オークヴィレッジを支える、3つの理念 では、循環型社会を実現するため具体的にどう動いていったのでしょうか。 「彼らはまず、石油資源だけに依存することをやめ、木を『植えて、育てて、切って、使う』というサイクルを適切にまわそうと考えました」 その想いは、オークヴィレッジの3つの理念として今もしっかりと受け継がれています。ここでその理念をご紹介しましょう。 【1】 100年かかって育った木は、100年使えるものに 1本の木が育つまでには、50年、100年という長い年月がかかります。そんな大切な木を使うからには、それ相応の、長い年月使える家具を作ろうという考え方です。 ![]() 【2】 お椀から建物まで 毎日使うお椀から、生活する建物まで。暮らしのさまざまな場面で木を使う提案を行います。 ![]() 【3】 子ども一人、ドングリ一粒 オークヴィレッジの『オーク』とは、『ナラ』の木のこと。実はこの木、私たちにとって馴染みのあるドングリをつけるんです。 1本の木を使ったら、1粒のドングリを植えて苗を育て、それを山に植樹し、次の世代に木を残していこうという考え方です。 ![]() たとえ、時代の流れに逆行しても 大きな希望を胸に、縁のあった飛騨高山で始動したオークヴィレッジ。ところが、なにもかも順風満帆というわけにはいきませんでした。 「100年使える家具というコンセプトで動き出したとき、やっぱり他の家具メーカーさんからは、『お前たちアホか』と言われました。『100年使える家具なんて作ったら、ほかの商品が売れなくなるじゃないか』と…」 高度経済成長の頃、家具は「作れば売れる」時代でした。そのため、商品のライフサイクルが短いもの、流行り廃りがあるものをあえて世に出し、壊れるか、飽きさせるかして次を売る、という動きが主流だったのです。 「そういうサイクルに反旗を翻したわけなので。まぁ、時代の『裏』をいってますよね(笑)」 しかし、そんな時代も今や終焉を迎えました。 「今は逆に、どこの家具メーカーでも環境のメッセージをアピールしないと物が売れなくなりました。そういう意味で、やっと時代が追いついてきたのかなと思います」と語る小木曽さん。 国産材を、有効活用したい オークヴィレッジの社名にもなっているオークですが、もともと日本では、ものづくりにあまり使われない木材でした。 ![]() オークのような広葉樹は、9割がパルプ(紙)になります。しかし知識や技術があれば、たとえ広葉樹でも、家具や木工品を作ることはできるのです。 「このままパルプだけに使うのはもったいない。日本の広葉樹をもっと有効活用しようと考え、うちは創業当初から一貫して国産の広葉樹を生かしたものづくりをしています」と語る小木曽さん。 鍵となるのは、自社で抱える職人たち 広葉樹を有効活用するためには、材料を見極めて、それを実際に形にしていく職人が重要になってきます。 「うちは問屋を通さず、職人が直接、山へ赴くんですよ。そうして木の性質やクセを見極め、『この部材はここに使える』という“適材適所”を判断していくんです」 例えるなら、飛騨牛を一頭買いするイメージだそう。肩ロースのようないい部位だけを使うのではなく、テールもタンも工夫して使って、おいしい料理を作っていく。 オークヴィレッジでいうと、イスやテーブルといった家具だけでなく、適材適所を考えながら小物まで手掛けることで、木材をすべて無駄なく活用していきます。 また、今の国産材は昔と比べて細い木が多いため、物を作る際にも木目や色を合わせたりといった作業が必要となり、通常よりひと手間もふた手間もかかってしまいます。 「うちの職人たちは、そういう手間を惜しまずやってくれるんですよ。しかも、ひとりひとりがやり方を工夫して、こだわってやってくださる。本当にありがたいです」 職人として「ものづくりができる」というのはもちろんのこと、その一段、二段、上の意識を持っている。言葉にすると簡単なようですが、なかなか難しいことだと思います。 木の特性を生かしたものづくり 100年使えるものづくりを実践するため、オークヴィレッジでは独自の工夫を行っています。そのひとつが塗料です。 木の呼吸を妨げない「植物性オイル」を使い、自社で「漆塗り」も行います。塗り直しやメンテナンスが可能なので、商品と長く付き合っていくことができます。(※小さな子ども向けおもちゃは無塗装で仕上げています) ![]() また、オークヴィレッジの家具は耐久性を最大限に引き出すため、伝統工法である「木組み」を用いています。これは、ビスや金具をなるべく使わず、木に切り込みを入れて木と木を組み合わせていく工法のこと。 ![]() 「木の特性を殺すことなく、昔からのやり方でものづくりをしています」と語る小木曽さん。創業者たちの精神が、ここにも深く息づいていますね。 こだわりが詰まった現場へ ここからは、実際にものづくりの現場を見ていきましょう。 まずは、チェアや小物を作っている工場にお邪魔しました。 ![]() 当店でも取り扱っている「海のいきものつみき」「森のどうぶつつみき」を制作中。木の板がみるみるうちに、かわいい動物の形に生まれ変わっていきます。 ![]() こちらは「森の合唱団」の木琴を作っているところ。小さなお子様が触っても痛くないよう、鍵盤一本一本に丁寧にやすりをかけて仕上げます。 ![]() 木琴の外枠にも、木組みの手法が用いられていますね。 ![]() こちらの低座のイスも木組みです。意識して見ないと分からないところに、こだわりの技がさりげなく使われています。 ![]() 私も今までいろいろな工場を見学させてもらいましたが、特にオークヴィレッジの工場はきちんと整理整頓が行き届いているのに驚きました。 「せっかく良い物を作っていても、現場が危険だとやっぱり商品に出てしまうと思うので。そこは気を付けてやっています」 ![]() 工場の壁には、歴代の職人が使ってきたのこぎりがズラリ。オークヴィレッジの歴史を物語っていますね。 ![]() こちらは、木のお皿に植物性のオイルを塗って乾燥させているところです。植物性なのでいい香りがします。 ![]() 独自に調合した植物性のオイル。これを塗った商品は使い込むほどに独特の味わいが出てくるため、自分で家具を“育てる”楽しみが味わえます。 ![]() 漆を塗っている工房では、職人さんが作業しているところを見せてもらいました。丁寧に漆を塗ったあとひと晩乾かし、またその上に漆を重ねて塗るという工程を5~6回繰り返して、きれいなツヤを出していきます。 ![]() こちらはボウルに漆を塗っているところ。ちょっとマットな質感を楽しんでもらう商品なので、漆は2回塗って仕上げます。 「ムラが出ないよう手早く均一に塗らないといけないので、その調整が難しいですね」 ![]() ちなみに、おがくずも飛騨牛の牛舎に持っていってもらい有効活用しているそう。その後、牛のフンと尿が混ざったおがくずを発酵させて堆肥にし、それを今度は野菜を作る農家さんに譲ります。最終的には土に還るので、これぞまさに『循環』ですね。 理念とビジネスを両立するには お話をお伺いすればするほど、冒頭で紹介した3つの理念が社員や職人のみなさんにしっかり行き渡っていることが伝わってきます。それが、クオリティの高いものづくりの原動力になっているのでしょう。 「がんばってやっているつもりはないんですけど(笑)もうそれが、当たり前のようになっていますね。創業者の方々がこういった理念を残してくださったことに、感謝しています」 ![]() こういう企業理念がある場合によく起こりがちなのが、理念を追求しすぎてビジネス面が後回しになってしまうこと。 オークヴィレッジの場合は、そのバランスのとり方がすごく上手だなと思います。 「そこはやはり、お客様に支えられた部分が大きいですね」と小木曽さん。 ![]() お客様とは単に『物を売ってお金をいただく』だけの関係ではなく、『理念からものづくりの背景まで丸ごと共感してもらって一生お付き合いいただく』ような関係を築いていく。 オークヴィレッジはそれが無理なくできているからこそ、理念とビジネスを両立することができるのだと思います。 | 製造現場ムービー | |
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本当に使いやすいキーリングとは?辿り着いたのは、円弧が連なったウェーブ形状。軽く、強く、使いやすい。そのすべてを兼ね備えた機能美は、最先端技術を支える特殊なばねのメカニズムによって実現しました。無骨なまでにシンプル。だからこそ、細部まで追求する。こだわる人のためのWAVECLIPSです。 |
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スマートキーリング
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木村石鹸

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大正13年創業、大阪八尾市の老舗石鹸メーカー。釜で焚いた純石鹸からニッチな洗浄剤を多数つくっています。 暮らしへのこだわり・日常への気配り・貫いてきた流儀 とことんこだわり抜いて粋を凝らした品々だけを厳選するのはもちろん、暮らしの隅々まで気の利いた「Cシリーズ」はかゆいところにも手が届くニッチな商品をラインアップしたシリーズ。 小さな会社だからこそできる暮らしの隅々まで気の利いたこだわりを、きっと感じていただけるはずです。 |
